第二十七回(明石全登)

蒲生郷舎

   この武将非常に謎が多い。
 名前の読み方もいまいち解らない。
 読み方はテルズミ、タケノリ、ナリトヨなどとなっているらしい。
 どれが本当の読みかはさだかではない。
 全登は宇喜多秀家の家臣で秀家の姉を妻にしているので
 秀家と義兄弟にあたる。
 そして全登は宇喜多家の家老であり
 知行は宇喜多家臣最高の三万三千石であった
 非常に秀家に信頼されていたようである。
 全登はキリシタンで有名である。
 1595年頃からキリシタンになったようである。
 1596年の宇喜多家中の御家騒動で重臣の多くが
 秀家から離れたことによって
 秀家の唯一の頼りは全登だけとなってしまいより信頼されたようである。
 関が原の合戦では宇喜多勢の約半分の8000人を率いて
 東軍福島正則隊と激突した。
 互角の戦いを繰り広げたが小早川秀秋の裏切りにより宇喜多勢にも
 敵が殺到してやむなく主君秀家を逃がし自分も戦線を離脱した。
 しかし彼が大阪城に入城する15年間彼がどこにいたかはさだかではない。
 そして大勢のキリシタンを従えて大阪城に入城した。
 彼の願いはもちろんキリスト教の許可と
 旧主君宇喜多秀家の八丈島からの復帰であった。
 しかしその夢かなわず大阪方は敗戦。
 やはりまた全登はどこかえと落ち延びていった。
 江戸幕府では「明石狩り」をするほど全登を恐れていたようだ。
 しかし全登は見つからず幕府を悩ませたのだった。
 
 明石全登は謎が多いが非常に魅力的な人物だと思います。
 温厚な性格だったようです。
 なぜか彼の名前をきくと心が温まります。
 大阪城を落ち延びてどこに行ったかはわかりませんがきっとどこかで
 キリスト教の教えを説いていたのでしょう。


島津 忠恒

明石全登は、もとは備前国磐梨郡熊野保木城主であり、
宇喜多氏に属し三万三〇〇〇余国を食んでいた。西洋に残る史料には
全登は宇喜多秀家とは義兄弟、または従兄弟として記されている。
宇喜多秀家は自らは信徒にはならなかったが、切支丹に好意的で
家臣で改宗するものが多かった。
全登は洗礼名をヨハネといい自分の城にバテレンを呼んで
城下で布教させるほど熱心で、全登の働きによって
三〇〇〇人が改宗したといわれる。関ヶ原の戦いで
宇喜多秀家がもはやこれまでと討ち死にを覚悟すると
これを諌めて逃亡させたことや、全登自身も逃げて
備中の国に身を隠したのはキリスト教の教義への篤信あらわれであろう。
大阪の陣では全登は信教上の目的と、自らの賞典を辞して
主君秀家の召還を願い出る目的があった。全登は
大阪城中における五人衆の一人である。全登は数人のバテレンと、
洗礼名モニカという彼の母とカタリナという息女などの女性を入城させ
傷病兵の看護にあたらせていたと言われている。
夏の陣五月七日、東軍の背後から急襲するように
船場から迂回しようとしたとき天王口の西軍敗れたりとの情報を聞き
市街南端に留まり東軍を迎え撃った。一時は越前兵を潰走させたが、
東軍に四方から攻められたため全登は城東に血路を開き
関ヶ原と同様に逃げた。
その後全登は備前国の和気郡に潜居したという。
また九州筑後国柳川の熱心な切支丹に匿われとも、
南蛮へ渡ったともいう。いずれにせよ彼は自殺はしなかったのである。





投稿本当にありがとうございました。

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