第二十六回(長宗我部盛親)

蒲生郷舎

   長宗我部元親の四男。関が原の戦いで西軍に属し浪人。
 いったんは井伊直政を頼り所領安堵で済みそうだったが・・・
(これを 説明していたらながくなりそうなので・・・^^;)
 髪を剃り落とし、大岩祐夢と名乗って京の下立売柳ヶ辻子に蟄居する。
 寺子屋をしていたという。
 慶長十九年秋の末頃盛親は行動を起こした。
 人を集めて酒宴をし、そのドサクサにまぎれて出立したのである。
 しかしこれはさだかではない。(真田幸村の出立も同じ)
 最初は二、三騎ばかり伏見では千騎ばかりにもなっていたといわれている。
 どうやら浪人している旧臣たちと密かに気脈を通じ、
 日を期していたわけである
 かなりの人数を引き連れて大阪城に入城したといわれてる。
 夏の陣での盛親は木村重成とともに高野街道から
 道明寺方面に進出してくる 東軍を邀撃する河内口の主将であった。
 冬の陣では五月六日、盛親は約五千の兵を率い八尾に進んだ。
 そして藤堂隊と激突。
 このとき盛親の巧妙な伏兵作戦で藤堂高刑を含む重臣六人を討つという
 大勝だった。
 しかし大阪城は落城しやむなく落ち延びたが盛親は
 河内の市辺茂右衛門という 者の屋敷内にあるよしの茂みに隠れ、
 次に八幡ちかくの橋本の芦原に隠れていたのを、
 蜂須賀家の家臣長坂三郎左衛門が見つけて生け捕りにされた。
 五月二十一に六条河原で斬首された。
 盛親が活躍したのは大阪の陣だけだがそれまで自分が大将となり
 合戦にでたことはほとんど無いだろう。
 少なくても私は知りません。
 それにも関わらずあれだけの戦ができたとなると
 もしたくさん経験をつんでいたらどれほどの武将になれたと思うと
 ぞっとするばかりである。
 私は盛親かなりの戦上手だと思います。





投稿本当にありがとうございました。

戻る