第二十五回(小早川隆景)
ラン
もっとも父親の血を継いだものと思われる。
理由は高松城が開城し秀吉が大急ぎで撤退していくのを
追わなかったところである。
吉川元春は追撃戦をのぞんだらしいが彼はあえて秀吉に行かせた。
これは追撃すると言うことは中国を守ると言う遺命を破るもので
その先は畿内進出せざる得ないであろう。
しかしそんなことをしては兵をさらに前線に投入せねばならず
仮に秀吉を倒したとしてもさらに明智、丹羽、柴田、徳川・・・
明智を除いたこれらの大軍勢はいざとなれば同盟する事だろう。
きっと相手するのもうんざりすることであろう。
まぁここまでくだらんことを考えたかは不明だが
結果として豊臣政権のなか追撃派の吉川は冷遇され
見逃し派の小早川は主家に並ぶほどの栄誉を得た。
さらに(ありがたくはないが)秀吉の養子の秀秋を養子に押し付け・・
もとい与えられた。
これだけ差の出る兄弟も珍しいと思いませんか?
原洞幌平
小早川隆景にはあくまでも毛利家の軍師に徹した
名補佐役というイメージがある。
黒田如水から「秀吉の甥秀秋を養子にしてはどうか」と
話を持ち込まれると、毛利家の純血を守るため、
自らの養子にしてくれと願い出たり、信長の死を知り、
元春が秀吉との戦いを主張すると、
「信長のあと政権を取るのは秀吉である」と予知していたのか
これに反対し秀吉に協力することで家名存続できた。
四国征伐や九州征伐の論功行賞でも、
自分は毛利家の軍師に過ぎないという考えを持っていたことから、
名補佐役・忠臣と言える。
また、小早川隆景は豊富な情報とその情報を無駄にしない分析能力を
持っていた。先に書いた1582年6月に信長が殺され、
その死を知った元春が秀吉との戦いを主張したときも、
豊富な情報と分析によって秀吉に勝てるわけがないという結論に達した。
小早川隆景がなぜ元春と180度違った意見を出したのか、
それは、吉川・小早川両家の地盤の情報の差だったとある本で読んだ。
吉川家は石見から出雲・伯きにかけて、つまり山陰地方であった。
それに対して小早川家は瀬戸内海沿岸地域、すなわち山陽地方であった。
山陽地方には大坂や京都方面の情報は入りやすく、
秀吉の情報もたくさん入っていただろう。
それと、小早川隆景の情報分析能力がプラスされ
「信長亡きあとは秀吉」という結論になったのだろう。
毛利家に尽くした隆景は1597年、65歳で没している。
隆景が関が原の戦いまで、あと三年長生きしていれば、
毛利家の歴史も違うものになっていたかもしれない。
投稿本当にありがとうございました。
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