第二十四回(石田三成)

ラン

   いろいろな資料から彼は圧倒的な力を持った人間の下にいて始めて
その力を発揮する人物だと思われる。(ほとんど常識の範囲の資料なので
あえて書かない)
人望のない学級委員長という感じがする。先生の前だと
みんなといっしょに働けるが生徒だけになった時
クラスメイトを統率しようとして
やんちゃな少年グループ(武断派の皆さん)に
生意気だと殴られるタイプであろうと考えます。
もし彼が統率しようとせずにいたらどうだったであろう。
先生はまた帰ってくるが死者は戻ってきません。
おそらく少年達は彼を相手になどせず団結しクラスを守ったであろう。
しかしそれでは完全に三成は蚊帳の外、
それだけは彼の自尊心が許さなかったでしょう。
結局ここでこらえても何時かはでしゃばってしまったと思います。
彼は高潔であり公正であっただろうが
残念なコトに目立ちたがりだったのだろう。


石田三成

石田三成の名をもつ拙者が言うのも難だが、
三成は色々な面でその才能を発揮したが、
関ヶ原では義を貫けば良いという甘い考えが敗因だと見る。
小早川、吉川の裏切りを読めなかったのも、
潔癖症だった彼の性格が災いしたと思う。

蒲生郷舎

 石田三成という武将は優れた人物だと思う。
 しかしこの人物は大将には向いていないと思う。
 いや、むしろ合戦の大将に向いていないと言ったほうが
 的確でしょうか・・・
 なぜなら三成は非常に内政能力に長けているがそのせいか関が原の合戦も
 頭の中での計算だけで勝ったと確信していたようである。
 しかし結果は皆様知ってのとうり石田三成率いる西軍は内応者がでて
 敗北してしまう。
 頭の中ではそんなこと考えもしていなかったようである。
 三成の性格はとても潔癖だったという。
 いやむしろ潔癖すぎると言ったほうがよいだろう。
 そのせいか三成はもちろん自分と同じように西軍に属した武将は
 まさか裏切ったりするなど考えもつかなかったようである。
 戦はそろばん勘定ではできないということが
 いまいち解ってなかったようである
 しかしそれならなぜ最初に優れた武将であると言ったのか・・・
 三成は前に言ったが非常に内政能力に優れている。
 秀吉存命中のとき彼は切磋琢磨に動き回り
 豊臣政権の内政の中心となって 頑張っていた。
 ようするに人に使われてこそその持ち味が生きるということである。
 そして彼は主人としては島左近を召抱えるなど
 なかなかの主人ぶりであった。
 現在のように平和な世の中なら
 きっと三成には一番あっていたのかもしれない。

大内義興

石田三成は嫌われ者である。
かわいそうなほどに嫌われる。
前田利家の死後、福島正則・加藤清正らいわゆる武断派連中に殺されかける。
五奉行の一人でありながら、こうも敢然と襲われる。
武断派の三成嫌いは相当なものですなあ。

でも忘れてはいけないことがある。
敵も多いが味方も多い。
最後まで忠義を尽くした島左近。
敗北を確信しながらも友誼に殉じた大谷吉継。
上杉景勝の右腕、直江兼続とも実懇だった。
徳川家康の味方は、みな打算的な流れで味方になっているのに対し、
島・大谷・直江らは強い意志をもって三成に付いている。
敗れたりとはいえ三成は盟友に恵まれた。
人付き合いがあまり上手くないのは確かだが、
やはり人を惹きつけるだけの「なにか」を持ち合わせている男だと思う。

光源院義輝

 武将と呼ぶより官僚としてのイメージが強い。戦働きでイイところは聞かない。
賤ヶ岳で槍を振るって、けっこう働いたらしいけど七本槍になれなかった。
まぁ、雑兵働きくらい誰でもやる。武将なら、
一軍を率いる才覚を問われるものでしょ。
 北条征伐の忍城攻め。確かに手際悪かった。
が、コレってどうも現場を知らない秀吉の大本営から発せられた厳命で、
率いた三成は言われるまま実行したに過ぎないというもの。
従った諸将も水攻めで攻城に力を入れず、
カネかけて造った堤も、より高所のドロ沼城を水没させられず、
決壊した時に寄せ手はヒッドイ水難にあった。
結局、小田原が落ちてからの忍城開城。カッコ悪い城攻めとなったのに
秀吉のせいになる為、一切の弁解をしなかったというのがどうやら真相のようです。
 ただ、三成ほどの賢い人なら もうひと工夫して水没、
落城させることだってできたのではと考えてます。
 いいアタマ持ってるのに何故か秀吉には逆らわない。
ホント、秀吉の機嫌を損ねないように、秀吉の為に、が第一なんでしょうね。
朝鮮出兵だって結果的にとめなかった。豊家が傾くの解かっていながら。
頂点に上り詰め、浮かれてワガママになった秀吉の暴走を止められたのは、
小一郎秀長の後はこの治部殿しか居なかったでしょうに。
 乱世には少ないキレイ事をならべる人。この人なりの理想像を
持っていたのでしょう。でなけりゃ、
直江山城、大谷刑部らが親友にならないでしょ。
 だが、この人には人望が無い。というよりは
どうしても武断派に受け入れられない。
後世の講談ってヤツを聴いたことなくて、正則、清正の武勇伝に馴染みがないです。
彼等に好感を持っている人には三成は悪者なんでしょうか。
秀吉との『三献の茶』の話ホンモノなら、なんでこの人が嫌われるのかって思う。
こういう気配りができる人、居ないって。市松、虎之助にできるわけがない。
 採り立てられていくうちに、だんだんイヤな人になっちゃったのでしょうね。
アタマほんとにイイもんだから、だんだん周囲がアホに見えてくる。
事実、豊家にはいくさバカ と能無しが蔓延してるし。
まぁ、三成が全部やるでしょって具合で。
中には、怖くて差し出がましい事ができないという人も居たのではないでしょうか、
きっとそう。
自分が一生懸命やってんのに、みんなはなんで張り切って働かないのか、
卑怯者ばかりじゃないか、なんて思えば
コレ以上ないくらい罵ってしまったと思います。
キレイ事の人ですし。でも、いくら三成が正しくても
ソコまで言っては理解は得られない。
やっぱり人望落とすわけだ。
それと周囲との協調性の無さ。相当ガンコで、アタマ堅い人だって印象があります。
正しいと思いだしたら人の意見に耳なんて傾けず、自分の考えを押し通す。
後の関ヶ原大戦で、この辺が大きな痛手になろうとは・・・・。
 連合政権の豊家に権力の一極集中、力を持つ諸大名を束ね続ける為には
必要でしょうがウマくやらないとあちこちから反発を多々 招く。
大ムチと小アメを織り交ぜた政策の数々。
豊家の蔵が潤っていくのは、三成の献策によるものがほとんどでしょう。
まさに柱石。
ただし、その税率も2公1民という高率。豊家の天下に不満を持つ人が増えるのも、
その不満の矛先が三成に向くのもわかる気がする。
だが誰も怖れをなして表立って逆らえない。
 元々、豊臣政権なんて豊家よりも秀吉個人との繋がりしかもたない政権だから、不
安定なこと極まりない。
没後の五大老五奉行制といったら、
家康に権力が集まりすぎて暴走、機能も果たさず。
三中老に至っては、その存在目的すら満足に知られてない。(私もホント知らない)
家がでっかくなること、派手なイベントを催して世間を驚かすことしか考えてない
モーロク ジジイは、磐石にする より効果的な具体策も掲げずに
課題山積みのまま死んじゃった。
 課題を片付けていこうとした矢先、意地の悪いタヌキジジイの約定違反連発。
生真面目な三成、発狂しそうに怒ったハズ。この時の家康を理解できなかったことで
しょう。
この時点で関ヶ原大戦の優劣は決まってるんでしょうね。
 利家も死んでからの、いくさバカたちによる三成襲撃未遂事件。
家康に匿ってもらい命を拾ったそうだが、三成は結構 得意満面になってなかった
か。
結果的には、とても大損だったと思う。
仲裁役になる分、家康が自由に処分を決められるおかげで、一段と評判が上がった。
三成自身は世間を騒がせた罪で強制隠居させられた。
そこでまた発言力を高めた家康が、
その間に前田、上杉への言い掛かりを吹っかけてきた。
逃げずに1度傷でも受けて、自身に正当性、発言力を持たせた方がよかっただろう。
処分を家康の自由裁量にさせず、毛利、宇喜多両大老にさせて
彼等の評判に繋がるぐらいにしないとダメ。
自身の強制隠居も無くなり、その後の前田、上杉を援けてやれただろう。
加賀25000も西軍でいられたハズだ。
いくさバカどもだって、謹慎させていくさに出さなくすりゃイイ。
何より、家康に従う東征軍が弱まる。大戦だって遅れることにもなったハズ。
その間に、西軍の足らない備えを固められたことだろう。
家康だって戦力不足なら、会津攻めを見送るだけでなく、
喧嘩の吹っ掛け先まで無くなり次の手が詰まる。
 まぁそれでも、上杉との連携に賭けた日本最大の挟撃戦。
スケールのでかさ、魅力は多いにある。朝鮮渡海作戦の補給と撤収の担当者。
国内戦なら尚更、楽だってことか。でもコレ、家康が釣り出したって言われる。
関ヶ原大戦の数日間、三成の行動のオタオタぶりをみると
やっぱり徳川の釣り出し策が正しいでしょうか。
 その細かい内容はお粗末。美濃で睨み合った両軍が
膠着状態になってるところに家康の旗印。
未だ来るハズが無いと、根拠の無いタカをくくってたところでの着陣。
沸き返る東軍。動揺の西軍。
家康の江戸出立情報を収集しようという配慮はどうも無かったみたい。
じゃあ、家康が来るのをどっしり腰を据えて待ってたのかと思いきや、
相当うろたえてたって話。
 その極め付けが、流言飛語に目一杯 踊らされ夜陰に紛れての大垣城抜け。
伊勢、美濃に上方の軍勢を集めたこともあって、
大坂までの備えは洛中を含め みな手薄のハズ。
心配なのは判らないでもない。でも、東軍の佐和山攻めを真にうけるとは・・・。
確かに関ヶ原敗戦後の佐和山城は、小早川金吾ら寝返り軍の猛攻で落とされた。
でも、まだ敗けてないなら守城側も奮戦。堅固佐和山城相手に
東軍がまともに挑むこともない。
だからといって、街道筋を抑える佐和山を無視しての西上も難しいだろうに・・・。
我が身大事、自城守りたさに全軍を動かしたと思われても仕方ない。
 ただ、これには異論があるそうです。
内容は、大垣を出て北側の山中に廻り込んで家康を奇襲するようなものらしい。
でも、三成が夜襲、暗殺などの献策を退けて消極策に終始しただけに、
東軍のデマカセに翻弄された一般説を支持します。
 一方で、他人にはホント冷たい。
大事に繋がる小事、島津豊久隊の放置事件。コレが決定的なんだよね。
兵站担当がほとんどだったせいか最前線の諸将の心ってのを全く掴んでない!!!
豊久殿が自身の配下なら敵陣に取り残したって、ソレはやってもイイこと。
でも彼は、友軍 惟新入道の配下。あっさり切り捨ててしまった為に味方の心まで離
れた。
 それで決戦当日、少数とはいえ精強無比の島津軍は東軍につかないまでも
以後一切、三成の下知には従わず静観を決め込んだ。
訳がわからない三成が使いを送っても、礼を失したお陰で更に態度を硬化。
三成自身が出向いても惟新入道の心を掴めず虚しく戻っていった。
 大坂に残った東征軍の家族をひっ捕らえ、
見せしめのため1人2人殺してもイイなんて言う三成だもん。
諸将の心が掴めない人に、家康が何考えてるかなんて想像できるハズもなく、
全軍の足並みを揃えられるハズもない。敗れて当然と言うべきか。
逆に豊家の勇将達(いくさバカ)の心を巧みに掴んで戦わせた家康。
おかげで、みんな三成の首獲りを競いあうように戦った感じ。
西軍も僅かな軍勢だけで、よく押し返してたが大垣から関ヶ原へは夜間不眠移動。
相当疲労してただろうによく頑張ってたが、かなわなかった。
 内通者が何人も出たのは仕方ないけど、まだ善戦できた余力は残ってたと思う。
情報収集を疎かにしといたせいもあり、別働隊との連携が悪い。
戦力を分散させすぎて美濃の本戦では苦戦。
おかげで集結前に、要となる織田少将の岐阜城を支援できず、わずか1日で失った。
ま、どこだって戦力上回ってないと西軍頼りないし。
西軍も合戦になったんだからハラくくって、総力を挙げて勝ちにいかないと!!
敗けて家康に許されること無いの分かりそうなものなのに。
それまでの家康の律儀者ぶり、仁者ぶりにまんまと騙されて・・。
 やっぱり三成のせいだろうな、全部。勝つための備え万全でないまま戦に及んだ。
それは、西軍の前線では割と兵糧、弾薬が不足ぎみだったということ。
豊家の援助も得られず、そのほとんどが諸将の自己負担だったため
末端の雑兵達の戦意低下につながり、決戦にも影響する。
逆に東軍。東征前に大坂でもらった黄金1万両、兵糧2万石もさることながら、
駿、遠、三、尾の四州、豊家ゆかりの大名から西上中に出された兵糧の山。
中でも正則が秀吉から預かった備蓄米.30万石が大きく、
兵糧に悩む事はほとんど無かったらしい。
(1人3合/日なら、東軍60000では180石/日、
ただし軍馬や荷駄隊の非戦闘員分は含まれず。)
それと三成には『豊家安泰のためには泥水をすすったって、
かぶったって構わない』ってところが微塵も感じられない。当然といえば当然か。
三成の脳漿に収まる机上の空論では既に勝ちが決まってて、
そこへ強引なまでに現実を当てはめていき、生じた現実のズレは修正しきらない。
そして不都合な可能性には触れないという愚挙。
それだから不慮の事態に弱さを曝す。おかげで、
物事最悪の事態を想定してっていうところもない。
何か、戦前の旧日本陸軍をダブらせるものがある。
何でアレで敗けるんだって、勝ち戦をしてた直江山城や、
真田安房が腰砕けになっただろうさ。
それでも島左近、舞兵庫、蒲生郷舎。
決戦当日の奮戦ぶりはホント見事だったそうです。
他家が羨む配下を持っていながら、彼等の能力を活かせないまま終わってしまった。
いくさ下手って思われるのはココなんだろうな。
 あと、捕われて斬首されるまでの護送中のこと。
大儀を志す者は、首を刎ねられるその瞬間まで命を大事にし、
目的達成に向けて頑張るもんだってな趣旨の話があったらしいけど。
聞こえはイイんだよね。
その割に、その大きな志が大戦時の行動に少しも結びつくことはない。
そう感じられて仕方ない。
むしろ、窮地に追い込まれると保身につとめる小心者という
印象が残った、非常に残念でした。





投稿本当にありがとうございました。

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