第二十三回(山本勘助)
武田典厩信繁
私が読んだ本によると、山本勘助は三河生まれではなく
四国生まれだそうです。そして20歳位に親戚のコネで
大内家に仕官したそうです。それから10年位働き大内家の滅亡
の時位に大内家をやめ、武田家に仕官したそうです。
その証拠は山本勘助が飯富虎昌に教えた赤備えは山本勘助が
大内家に仕官していた時たしか中国地方の武田との戦い時
使っていたのを見てまねしたそうです。
三河武士
武田二十四将の中でも一番知名度がある勘助ではあるが、
同時に一番謎の多い人物でもある。
甲陽軍鑑によると三河国牛窪の出身、入道して道鬼と号し諸国を流遊して
事情に精通し、文武百般に通じるとある。
更に有名なのは永禄四年九月の川中島の合戦でキツツキの作戦を考え
実行して上杉謙信に見破られ責任を感じて壮絶な戦死をした。
ここまで有名な山本勘助が何故一番謎の多い人物かというと、
当時のことを示す資料が甲陽軍鑑のみで
他の歴史資料には登場しない点が挙げられる。
私が思うに、山本勘助は存在したが武将ではない様な気がする。
新田次郎著武田信玄では、隠密役で登場する、このあたりが
一番近いのではと、事実武田二十四将の殆どが
江戸時代に書かれた物が多く真田十勇士同様
庶民の娯楽的扱いで勘助のような人物の登場は
歴史小説を盛り上げる効果がある。東宝映画『風林火山』では、
三船敏郎が熱演しているし、日本文芸社では
武田信玄外伝『片目の軍師』という漫画もあり、
今でも庶民の人気戦国武将であるのは間違いなし、
それだけ魅力的な山本勘助晴幸入道道鬼である。
五十公野 重家
山本勘助には様々な見方があるとおもいます。
たとえば、軍師としての勘助・忍者勘助・築城名人など・・
私はこれだけ様々な逸話を残す武将は、本当に存在したかどうかは
別として戦国時代彩ってくれた人物だと思います。
勘助は三河の牛窪出身の牢人だったらしく、剣術・築城・陣法に
すぐれていたらしい。初めは今川義元に仕官したが、容姿が醜いうえに
手足が不自由なので義元に嫌われ武功を上げても可哀想に
召し抱えられることはなかったそうです。しかし駿河にいて9年目で
転機が訪れます。信玄が勘助の武功を耳にしたらしく、
甲斐へ招かれることになります。その待遇は知行は百貫、
しかも迎えにきたのが家老の板垣信方という超VIP待遇。
その後、信玄の下たびたびの献策や諜略・築城などに力を発揮した。
だが、第四回川中島の戦いで提案したキツツキ戦法が上杉謙信に看破され、
責任を感じた勘助は上杉軍に突撃をして討死!
勘助は実在したかどうか不明とされています。しかし私は、
彼は知謀に長け責任感が強く誰よりも信玄の為に仕えた漢”だと思います。
投稿本当にありがとうございました。
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