第二十一回(山中鹿之助)

関東管領 真田昌幸

  山中鹿之助は忠実な尼子家の家臣
そして悲劇のヒーローでもある
尼子氏が毛利元就に滅ぼされ、再起を図るため再び出雲の国に切り返しを
図る一連の事件の実質的な指導者
月の信仰者で「我に七難八苦を与えたまえ」と言ったのはあまりにも有名。
結果的には悲願を果たせなかったが、一時は出雲の大半を手に入れ、
何度も毛利と戦った武勇はさすがである。
吉川元春が、上月城落城、尼子勝久が切腹する条件で城兵を
助けるはずだったが、鹿之助だけは助けなかったことにしても
それだけ恐れられていたことがわかる。
ちなみに美男子だったらしい


ラン

一般に知勇兼備の色男と言う何ともムカツク評判が立っている男で
オマケに悲運の名将として名高い。
しかし私はあえて問いたい、彼は何故尼子家にこだわったのか!!と
私がこの疑問をもったのはこの当時の武士はまず自分が生き残る事が
大事(主家?二の次三の次)という今の武士道とはかなりちがう価値観を
持っていたという事を聞いたときだ。
彼の生き様は自分の全てをなげうって主家の再興を目指す・・・
どう見ても先ほどの生き残りを目指す武士達とは違う・・・
おそらく彼は時代に合わない何か人として大切なモノを
持ってしまっていたのであろう。そしてそれが彼の魅力であり、
また弱点でもあったのだろう・・・
彼の人生を不幸と呼べるのだろうか?私は大切なものを
必死で守る姿を考えると少し羨ましくも思えます。
何百年たっても必死で生きる人々に共感や憧れを
持たせる彼の人気が衰えるコトはないだろう。


上杉弾正少弼謙信

山中鹿介(やまなか しかすけ)と山中鹿之助(やまなか しかのすけ)は、
昔はどちらも使われていたようです。
呼ぶ時は、「しかのすけ」と呼びました。
漢字は、「山中鹿介」と書きました。
どうやら、「鹿介」で「しかのすけ」と呼ぶようです。
それを我々現代人のだれかが
「鹿と介の間に之を入れて」
「しかのすけ」と読んだようです。
結論的にどちらでも「しかのすけ」と呼ぶので
どちらを使用してもよいと思います。

さらにここで問題ができました。
鹿介の介と助どちらが正しいのでしょう。
私的に、鹿之介が正しいと思います。
上記にも書きましたが「鹿と介の間に之を入れて」と言う理由です。
この介か助の問題ですが知っている方お願いします。


清水宗治


十六歳の時、尼子義久に従って伯耆に入り山名氏と尾高城で戦う。
山名の驍将菊地音八正茂を討ちとって一躍その勇名をあげる。

月山富田城攻防戦
その1 白鹿城救援
永禄六年(1562年)山陽、山陰を次々に切り取った毛利元就は
尼子十旗の第一とされる白鹿城の攻略を開始した。
攻める毛利軍は一万五千。白鹿城には尼子方松田誠保ら二千が籠城した。
白鹿城は月山富田城の目と鼻の先でこれが落城すると
次は月山富田城があぶなくなるのは目に見えている。
そこで一万の大軍が白鹿城救援として月山富田城を発したが
毛利の迎撃にもろくも敗れ去った。この時鹿之介が
尼子軍退去の殿軍になって見事、毛利の追撃を振り切った。
当時鹿之介はまだ十九歳であった。

その2 月山富田城3面攻撃
白鹿城を落とした毛利元就は三万の大軍で月山富田城を囲み
永禄八年(1564年)管谷口、御子守口、塩谷口の三方から
総攻撃を開始したが尼子軍も堅固な城地を背に
果敢に応戦し毛利軍を撃退した。鹿之介も塩谷口で
敵将高野監物を討ち取り手柄をたてた。

その3 品川大膳との一騎討
  
鹿之介は、戦ってしばしば手がらを立てた。
彼の勇名は、味方のみか、もう敵方にも知れ渡っていた。
敵方に、品川大膳という荒武者がいた。
彼は鹿之介をよき相手とつけねらった。名を「たら木狼介勝盛」と改め、
折りもあらば鹿之介を討ちとろうと思った。
或日の事、鹿之介は部下を連れて城外を見廻っていた。
川をへだてた対岸から、鹿之介の姿をちらと見た狼介は
破鐘(われがね)のような声で叫んだ。
「やあ、それなる赤糸縅の甲は、尼子方の大将と見た。
鹿の角に三日月の前立は、まさしく山中鹿之介であろう」
鹿之介はりんとした声で大音に答えた。
「いかにも山中鹿之介幸盛である」
狼介は喜んでおどり上がった。
「かく言うは石見の国の住人、たら木狼介勝盛、さあ、
一騎討の勝負をいたそう。あの川下の州こそよき場所」と言いながら、
弓を小脇にはさんで、ざんぶと水に飛び込んだ。鹿之介もただ一人、
流を切って進んだ。狼介は、弓に矢をつがえて鹿之介をねらった。
尼子方の秋上伊織介がそれを見て、
「一騎打に飛道具とは卑怯千万」
と、これも手早く矢をつがえてひょうと射る。
狙い違わず狼介が満月の如く引きしぼっている弓のつるを、
ふつりと射切った。味方は「わあ」とはやし立てた。
狼介は怒って弓をからりと捨て州に上がるが早いか、
四尺の大太刀を抜いて切ってかかった。しかし、
鹿之介の太刀風はさらに鋭かった。何時の間にか切り立てられて、
次第に水際に追いつめられて行った。
「めんどうだ、組もう」
こう叫んで、狼介は太刀を投捨てた。大男の彼は、
鹿之介を力で仕止めようと思ったのである。二人はむずと組んだ。
しばらくは互いに呼吸をはかっていたが、やがて狼介は
満身の力をこめて鹿之介を投げつけようとした。鹿之介は、
それをじっと踏みこたえたが、片足が州の端にすべり込んで、
思わずよろよろとする。忽ち狼介の大きな体が、
鹿之介の上にのしかかった。鹿之介は組敷かれた。
両岸の敵も味方も、思わず手に汗を握る。とたんに、
鹿之介はむくっと立ち上がった。其の手には血に染まった短刀が光っている。
「敵も見よ、味方も聞け。現われ出た狼を、鹿之介が討取った」
鹿之介の大音声は両岸に響き渡った。


月山富田城落城
永禄九年(1566年)十一月二十八日、毛利方の兵糧攻めにより
難攻不落を誇った月山富田城もついに開城。
ここに、山陰の名門尼子氏は毛利の軍門に降った。
尼子の遺臣達は浪人となって諸国に散っていく。
山中鹿之介、時に二十二歳であった。

尼子氏再興と布部山合戦
浪人となって諸国遊歴の旅をしていた鹿之介は、その旅の途上、
京都の東福寺で僧となっていた尼子家ゆかりの少年
孫四郎勝久に対面した。勝久の人となりを知った鹿之介は、
この人物こそ尼子家再興の盟主に仰ぐべしと、
永禄十二年(1569年)尼子の残党を糾合して、
主家再興ののろしを上げたのである。尼子勝久を奉じて
出雲に乱入した鹿之介ら尼子軍は、たちまち膨れ上がりその数3千。
ひとつき足らずのうちに月山富田城に迫る勢いとなった。
しかし、月山富田城主天野隆重の計略にてこずっている内に、
急を聞いた毛利勢が九州より大軍をもって救援に駆けつけてきた。
主将毛
利輝元以下、吉川元春、小早川隆景ら総勢一万四千は、
中国山地を北上して月山富田城に迫ろうとする。
一方、これを迎え撃つ鹿之介ら尼子勢7千は城の南、
布部中山に陣を敷いた。戦いが始まったのは
元亀元年(1570年)二月十四日の早朝のことである。
戦況は朝のうち、尼子方の勝勢で推移していたらしい。
そこで、両軍の動きを見ていた毛利側の名将吉川元春は、
山上の尼子の本陣は、おそらく手薄になっているに違いないと、
別働隊を送って、間道から本陣を衝く策をめぐらし、
土民を買収して間道伝いの迂回路を教えてもらう事に成功した。
やがて毛利の別働隊が、山上の尼子本陣に突入し、
毛利の旗が山上に立つと戦況は逆転した。
主だった尼子方の武将は次々に討ち死にし、潰走する尼子軍の中、
鹿之介は単身脱出して、かろうじて尼子勝久の篭る末次城に入ったのである。

明智光秀の幕下に入る
布部山の合戦後、出雲での拠点を次々に失った尼子方は
一時出雲より撤退、当時日の出の勢いで中国地方をうかがっていた
織田信長を頼る。信長は鹿之介をたいそう気に入り
「好漢である」といって誉め、四十里鹿毛という名馬を送った。
尼子残党は明智光秀の幕下に入った。

明智光秀幕下時代の鹿之介
鹿之介を大変尊敬している野々口丹後という侍がいました。
ある日彼は鹿之介に向かって
「私は今まで人に褒められるような手柄を何回か立てている。
しかし、いっさい無我夢中で働いてどんな具合にして敵を討ち取ったか、
首を挙げたか覚えていない。しかしながら、
人によってはどういう具合にして敵を討ち取って、
敵がどう動いたかということをはっきりと言う人がいる。
そういう人は天性の勇者であって私は臆病者なのでしょうか?」
と聞きましたところ、鹿之介は
「あなたは正直者だ。あなたの言われる事が本当なんだ。
私は、首供養を二度もしたほど多数の首を取っているが、
およそ5,6回までは本当に無我夢中で働いた。そこで、
7,8回に至って、暁の薄明かりに物を見るがごとく、
どうやらおぼろげにわかった。そして十回ぐらいになって、
白昼に物を見るがごとくに、敵の内兜まで見えるようになった。
そうなると、敵のどこを打つべきか、どこを斬るべきか、
どこを払うべきかということがわかって、
功名手柄を思うがままに立てられるようになった。」
と言った。

上月城の落城
織田と毛利の本格的な戦闘が始まったのは天正五年(1577年)である。
織田方の総大将、羽柴秀吉は、播州の要衝上月城に進出、
ここに尼子勝久以下尼子勢三千を入れて守らしめた。
だが、上月城はまもなく、毛利.宇喜多連合軍三万に包囲されてしまった。
秀吉は何とかして篭城中の尼子軍を救出しようとするが、
秀吉軍は一万余り、眼下に展開する毛利.宇喜多の大軍のために
どうすることもできない。京にいた信長は上月城放棄を秀吉に命じ、
ここに城中の尼子勢は孤立、三ヶ月後遂に落城してしまう。

鹿之介の最期
上月城から護送される鹿之介が
吉川元春の命を受けた刺客の手にかかったのは、
天正六年(1578年)七月十七日であった。

ここは備中の国甲部川の渡しである。

川端の石に腰掛けて、来し方行末を思いながら、
鹿之介はじっと水の面を眺めた。

つばめが川水にすれすれに飛んでは、白い腹を見せて宙返りをしていた。

突然後ろから切り付けた者がある。

鹿之介は、それが敵方の一人河村新左衛門であると知るや、
身をかわしてざんぶと川へ飛び込んだ。

新左衛門も飛び込んだ。

二人はしばし水中で戦ったが、重手を負いながらも
鹿之介は新左衛門を組み伏せてしまった。

すると、今度はこれも力自慢の福間彦右衛門が
後ろから鹿之介のもとどりをつかんで引き倒した。

七難八苦の生涯は、三十四歳で終わりを告げた。





投稿本当にありがとうございました。

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