第二十回(織田信忠)

織田信忠

  言わずと知れた覇王・織田信長の嫡男。
天正三年・長篠の戦いの後、織田軍のほとんどが越前一向一揆討伐に向かう中、
総大将として岩村城攻めに向かう。落城後、織田家家督を相続。
これより「織田家当主」は信忠で、信長は「天下人」である。
「織田家」は「天下人」信長の家臣で、羽柴家・明智家などと同格である。
唯一の違いは信長の後継者になれるという点。
天正五年・雑賀攻め以降、織田家総大将を務めるようになり、
松永久秀討伐・荒木村重討伐・甲州攻め、などで総大将として活躍。
特に甲州攻めでは信長の手をまったく借りずに長年の宿敵・武田を滅ぼす
という大功を立てる。
戦後には信長に「天下之儀も御与奪」(『信長公記』)とまで言わせ、
後継者としての地位を完全に確立。
しかし羽柴秀吉の中国攻め救援に向かう途中、
妙覚寺滞在中に本能寺の変が勃発。
信長はこの時「城介が別心か」(『三河物語』)と言ったと言われる。
嫡男を力量ある後継者と認めながらも、親子仲は険悪だったのだろうか?
信忠は妙覚寺から二条御所に移り奮戦するが、力尽き、自害。享年26歳。
事変前、光秀が神籤を引いたといわれる愛護権現は、信忠が日頃
多大な献金をしていた場所でもあった・・・。

一般的には「徳川信康に劣る」とよく言われるが、
これは研究家・高柳光寿氏の個人説であって、昔からあるものではない。
しかし『山岡荘八・織田信長』など多数の小説に書かれており、
あまりにも有名である。
親の七光り とか 個人の力量には疑問 との声もあるが、
優秀か凡庸かを決める決定的な事は無い。
しかし、甲州攻めでの高遠城攻略戦などで、自ら刀を手に先頭で敵に突っ込む、
などという事をやるぐらいだからただ者ではないだろう。


井伊直政

  地味だが、優秀。とくに武田攻めの時、滝川一益とともに、
抜群の働きをしたし、松永攻撃も筒井と連携したので、優秀だ。


真田大助

   織田信忠は歴史に可能性を残したまま不幸な死をむかえた人物の一人です。
彼が生きていたら、織田家はもう少し別の道を迎えていたでしょうか。
例えば、秀吉あたりにより完膚なきまでに叩き潰されるとか。

 秀吉は中国攻めの際、使者から受け取った「信長討ち死に!」の報「だけ」を
聞いた時、天下への野心が芽をふいたといいます。
織田家の現当主たる信忠が生きていても何とかなると思っていたのでしょう。
 信孝や信雄も、偉大なる父や兄の生死が分からなくなったとなれば
後釜を狙う野心もでき、行動に移す可能性も十分にあります。
事後処理の席で共同統治や分割統治の提案ぐらいはしたかもしれません。
そして黒田官兵衛あたりが積極的な謀略をとれば内紛が起こること必至。
 少なくとも織田家中に緊張が生まれ、力がそがれたであろうことは
想像に難くないです。

吉良篤次郎

この方、本当に可哀相な人で、生まれたときに信長が
赤子である信忠の顔を見たら、不細工だ、と言って
奇妙丸と名付けたらしい。
戦国の申し子、信長の子供として育てられた信忠は、
成長するにつれてその才能を発揮。清洲城主、
岐阜城主となって行き、武田攻めでは総大将になり、
見事、武田勝頼を天目山に追い詰める。勝頼は
割腹。信忠は武田攻めの大手柄を立てる。
しかし、彼の才能は光り輝くまで磨ききれるまでにいたらなかった。
1582年、本能寺の変が発生。父、信長は自刃。
信長の側近森蘭丸も戦死。妙覚寺に居た信忠は
明智軍に備える為に二条新御所に移るが、
士気を失った信忠軍は明智軍にあっけなく敗北。
信忠は切腹。付き添っていた村井貞勝も戦死。
京都周辺は明智光秀に制圧される。
津本陽さんの著書に「信長と信玄」という本があって、
自分もそれを読んだが、最後に、たとえ信忠が信長の
後を継いでも、織田家の天下は長くは続かないだろう、
と書いてあった。確かにその通りかも知れない。信忠だけ
では羽柴秀吉、徳川家康達を抑える事はできないかもしれない。





投稿本当にありがとうございました。

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