第二回(酒井忠次)

永蓮寺初二

   
酒井忠次は、徳川(松平)家に家康の父、広忠の時代から
仕え、徳川四天王の中でも最年長でした。
忠次は三河一向一揆、三方が原の戦い、長篠の戦い、
小牧長久手の戦い・・・等、徳川家の重要な戦いで
数々の武功を挙げています。
中でも三方が原の戦いでは、武田信玄に大敗を喫して
ボロボロになった家康本隊が浜松城に戻って来ると、
太鼓を叩きまくり、徳川軍の士気を大幅に上昇させました。
(世に言う「酒井の太鼓」です・・・・・・・・・・・・・。)
鼓舞というのは信頼がある武将が実行して初めて効果が
あるものです。このエピソードから、
「忠次がいかに信頼がおける武将だったか」ということが分かります。
長篠の戦いでは、織田信長に武田方への夜襲を提案して、
多大な戦功を挙げました。
そして、信長とのエピソードで忘れてはならないのが信康事件です。
忠次は家康の長男・信康が武田に内通しているという疑いをかけられた
際の弁明役として信長と面会しますが、一切の弁明をせず、
信康を見殺しにしまいました。(ただし、信康が武田と通じていた
という事実はなかったとする説が有力。原因は信長が自分の嫡男の信忠より
盟友・家康の嫡男の信康の方が能力的に優れているという事実から、
将来の織田・徳川の勢力関係が逆転することを恐れたため・・・・
であるとか築山殿(家康の妻・信康の母)と信長の娘・五徳(信康の妻)
の嫁VS姑の確執であるとか諸説ありますが、信長の一方的な
言いがかりであったことはほぼ間違いないでしょう。)
そして、この信康事件が後の酒井家の命運を変えてしまいました。
天正18年(1590年)、家康が酒井家次(忠次の息子。この時、
忠次は既に家督を家次に譲り、隠居していた。)に与えた領地は
下総臼井3万石でした。
譜代家臣の嫡子としてはあまりにも狭い領地です。
忠次はこの処遇に自分の息子に対する不安を感じたのか、
家康に「息子をよろしくお願いします」と頼みました。
しかし、家康は「お前でも息子が可愛いか・・・」と言い、
信康事件の事をひきあいに出したのです。
では、家康は本当に忠次を憎んでいたのでしょうか?
私は憎んでいなかったと思います。確かに、家康は度々
「信康が生きていれば・・・・」と周囲の者に漏らしていたそうですが、
酒井家に対する処遇に信康事件はあまり影響しなかったと思います。
それは何故か?--------四天王の他のメンバーに与えられた領地を
見ればわかります。本多忠勝は上総大多喜10万石(後、伊勢桑名10万石)。
榊原康政は上野・下野18万石。井伊直政は近江佐和山城・・・・。
いずれも広い領地は与えられておらず、幕府を守る上での要地に
配置されています。股肱の臣は領地を与えなくてもついてきます。
本当に領地を与えるべきであるのは新参者(江戸幕府における
外様大名)なのです。
股肱の臣といえども幕藩体制に組み込まざるをえなかった。
これが、天下人となった家康の答えでしょう。
「お前でも息子が可愛いか・・・」というセリフは、忠次を説得するために
発せられたのであって、憎しみは込められていなかったと思います。
織田信長、豊臣秀吉、北条氏政にもその才を愛された忠次。
きっと義に厚い典型的な三河武士であったことでしょう。





不識庵

酒井家は徳川(松平)家と始祖 徳阿弥をおなじくする徳川家のもっとも
由緒正しい名門で、そのなかで酒井忠次は徳川家康の初期を支える重臣中の重臣で
四天王の中でも別格であり、石川数正と並んだ2大巨頭の一人でした。
しかし酒井家というのは忠次の属する左衛門尉系だけではなく
他には大きなものとしては雅楽頭系があり若狭小浜藩系などもあり、
江戸時代に入っては雅楽頭系から大老忠清や若狭小浜藩系から
初期の準大老格(名前わすれましたすいません)がでており、老中が
出たの忠次の左衛門尉系はなんとなく押されぎみです。
石高では雅楽頭系・若狭小浜藩系系とおなじくらいの十万石から
十五万石くらいですが。また三河の一向一揆の際に家康に反旗を翻した
酒井将監忠尚という人物は実は忠次の実兄ではないかという話もあります。
酒井左衛門尉系の本家 庄内藩酒井家(忠次の孫の忠勝から始まる藩です。)の
家伝?らしい「酒井家世紀」ではのってないそうですが。
また庄内藩のあった庄内地方からでている庄内藩の歴史の郷土本では、
なんと有名な信康の話が、信長の娘の五徳が家康の側室で、
正室 築山とその子信康vs側室の五徳の争いから築山と信康が殺されたんで、
忠次は徳川家を守るため信長の娘家康の側室五徳側についただけだと
書いてありました。家康が信長の娘を側室にするという話は
当時の信長・家康の関係から考えても考えにくいことですが、
庄内地方ではそうなっているんでしょうか。いずれにせよ忠次の子孫達は、
忠尚のことや築山事件を負い目に感じていたんだと思います。
ただしそれはそういった事がありながら家康に信頼され
重用されつづけたほどの能力をもった忠次自身の負い目や
評価するべきことではなく、忠次の子孫であったということで
大名であった人たちの話なんでしょうね。
大老(格?)酒井忠勝の若狭小浜藩酒井家のことですが
若狭守としている資料もありました。忠次の孫の忠勝とは別人で
忠次の子孫ではないのでもしかすると雅楽頭系の一つなのかもしれません。

今川国氏

酒井さんは代々から松平家につかえており松平家にたいする
思いがあるとおもいます
酒井さんはすごいおかたです
松平家のお米お金をこっそりとためていたのです
その軍資金で今川武田を滅亡さいしたんです
(今川家は滅亡してません)酒井は松平の顔です





投稿どうもありがとうございました。


戻る