第十九回(黒田如水)

関東管領 真田昌幸

  関ケ原の合戦が終わり黒田長政が父と話をしていました。
長政は自分の手柄で徳川の勝利に終わったと、如水に喜んで言いました。
しかし如水は怒りました。なぜかというと合戦が長引けば
九州を制圧して天下を取れたというからです。



関東管領 真田昌幸

 

黒田如水の恐ろしさ

なぜおそろしいか、それは秀吉が如水の功績にもかかわらず十数万石だけ
という褒賞にもわかります。
さらに関が原の合戦終了で、如水は九州の豊臣方を私財を
なげうっても攻めたのに、秀吉と同じように少しの恩賞でした。
なぜか?たくさんの領地を持たせては、何をするか分からない。
天下を揺るがすことを犯しかねない。
そう思ったのではないでしょうか?
それだけ如水の知略は恐ろしいのだと思います。


武田典厩信繁

 黒田長政が関ヶ原の合戦後に九州に凱旋してきた時、 
 長政は家康から誉められており得意気で父に自ら働きぶり
 を報告した。父からも誉められると思っていたが、
 官兵衛は誉めるどころかいきなり怒り、
  「自分が九州で西軍の軍兵を討ったのは何も家康のためで
   はない、一か八かの大博打のつもりで、何とかして
   天下を取って、お前に譲ってやりやいと思って働いた
   のだ。それなのにお前は家康の走狗となって命を
   的におお働きをしてしまった。言語同断。親の心
   も知らぬ日本一のうつけ者よ」
          と言った。


孫市

知略深さは言うまでもないがこの人意外とお人よしで
自分の策に溺れる事があると思う。でなければ荒木村重ごとき
の浅謀にはまらないと思う。伊丹城での幽閉が彼のその後の
人生を語っている。


永蓮寺初二

〜私の如水論〜

関ヶ原の戦いで息子の長政が東軍で活躍したことを聞きつけた如水が
長政に向かって「内府(=家康)と握手した時、もう片方の手は
何をしていたのだ」と言ったエピソードは如水に”我が子を
犠牲にしてまでも天下を狙った野心家”というイメージを
あらわすものとしてよく語られますが、果たして如水は天下を
狙っていたのでしょうか?
私は、如水は天下取りの夢はわずかながらあったものの、
それよりも第一に黒田家の安泰を考えていたと思います。
ですから、先のエピソードの裏には長政への並々ならぬ
愛情と黒田家の安泰を願う如水の強い願いが隠されたいたわけです。
その根拠を物語る話に、如水が死ぬ間際に家臣達に対して急に厳しくなり、
それをみかねた長政が如水をなだめようとした時、如水が、
「乱心したわけではない。これはお前の為にやっているのだ。
一日でも早く俺が死んで、おまえの代になって欲しい、
家臣もそう思うだろう。」と言ったという話があります。
長政にここまで愛情を注いでいた如水パパが息子を平気で
見殺しにできるわけがなかったんですね。
戦国の世は産めよ増やせよの時代、武将達は家康のように側室を沢山抱えて、
子供を沢山つくり、場合によっては覇業の為に子供が
親の犠牲になることがありましたが、如水の場合は事情が違いました。
如水は側室を持たなかったので、長政への愛情が深かったことは
容易に想像できます。そして、有岡城に荒木村重の織田方への
帰順を説得しに行ったのも、類稀なる知略を持つ如水に
それが危険な行動であったということがわからないはずはありません。
如水が死を覚悟してまで有岡城に赴いたのは、
”そうせざるをえなかった”からでしょう。如水は、有岡城に行く前に、
主人・小寺政職の居城である御着城に行き、政職に織田軍への残留と
毛利につくことへの不利を説いています。そこで、政職から
「うむ、そちの言うことはもっともじゃ、有岡城にも赴いて
荒木殿にも織田への帰順を説得してきてくれ」と言われます。
もちろんこれは罠で、荒木と政職様は裏で有岡城に邪魔者となった
如水を閉じ込める計画を立てていて、
如水が有岡城行きを断れば、政職は如水を斬る手筈であったと推測します。
なぜなら、この時、如水はお供をつけずに、行動していたからです。
如水は毛利につく決心をした主君・政職に追いこまれた形となりました。
(こう考えると政職様の知力ってかなり高かったんじゃあ・・・・)
そこで、如水は有岡城に入る決心をするわけですが、その時、
如水が考えていたことは「嫡男・松寿丸(=長政)の無事」と
「黒田家の安泰」でしょう。結果として松寿丸は秀吉の妻のおねと
秀吉の軍師の竹中半兵衛に匿われ、立派な武将に成長しました。
如水は、こうして豊臣家の恩義に報いる為に、病没した
半兵衛の後を継いで太閤秀吉の知恵袋、名軍師黒田如水として
歴史に名を残しました。

如水は他の武将達よりも特に家族を愛した策士であったと思います。


bishop

 如水という名前は太閤秀吉の軍師としても、時の権力者にその知略を
恐れられて九州に流されたことも、福岡藩の祖(厳密に言えば真の福岡藩の
祖は黒田長政なのでしょうが)としても、非常に有名な人物として
知られております。実際に、福岡では如水の文字を屋号に用いている
和菓子屋さんもあるくらいです。

 その一方で、官兵衛や孝高という人物は福岡では
全く知られておりません。

 こんな事を書けば、何を言っているのだ同一人物ではないか、
とのお叱りを受けましょうが、とにかく現在の筑前国(つまり福岡県)
では、これは現実のことなのです。

 名前を次々と改名することは戦国時代ではそう珍しいことではなく、
名前百面相の稲葉一鉄の足元には及ばないものの、如水もその例外では
ありません。しかし、このおかげで如水以前の名前は
相当の歴史好きな人間以外には知られることがあまりないようです。

 実際、私もコーエーのゲームで黒田官兵衛なる人物が登場したときに、
能力値の高さと苗字である程度の推測はつくものの、誰のことを指すのか
ハッキリとは判らなかったくらいですから。それどころか歴史に
関心を持つ前までは、愚かにも如水のことを生粋の博多ッ子だと
思っておりました。

 まァ、こんな感じですから、その子息たる黒田長政はさらに無名。
ですから、まさかこの人が福岡藩の開祖とは博多駅前の黒田節の像を
毎日眺めて通勤している人でも思いますまい。そもそも、黒田節だって
判っている人はいないでしょう。

 それをいつのまにやら知ってしまうのですから、たかがゲームとはいえ、
歴史ゲームがもたらした恩恵は結構なものだと思います。

 さて、如水の九州入り直前までの活躍は結構知れ渡っておりますが、
それ以降はあまり知られておりません。有名なのは高橋紹運が籠城した
岩屋城の救援に彼が向かう手はずだった事ぐらいでしょうか。史実では、
豊前の城井氏や香春岳の高橋元種などと激しく戦っているのですが、
この頃から秀吉の軍師から一介の軍団長に
格下げになっているような気がします。

 まァ、この軍師との呼称がもう一つのゲーム三国志から引きずっている
マイナスの遺産のような気がしておりまして、実際、我が国の戦国時代には、
三国志のゲームで言うところの軍師(アドバイザー)は
存在しなかったのではないかと思うのです。
 イメージがそぐいません。

 それはさておき関ヶ原が終わりますと、群雄割拠が永遠に続いていた
筑前国を完全支配する大名家が登場するのはなかなか興味深いもので、
さっそく信長の野望 Internet でも選択したくなるのですが、
何故かこれが出来ない。

 関ヶ原前夜では九州には如水の他、熊本城に加藤清正がおりました。
この両者の戦いをゲームで実現させたくてたまらなかったのですが、
それが出来るのはシステムソフト社の天下統一シリーズだけです。
なんとも残念ではありませんか。せめて、信長の野望に
シナリオエディタがあれば...。

 歴史にもしも...は、あっちゃならないのですが、これが出来るのが
歴史ゲームの最高の楽しみです。如水には九州統一の野望と計画があったと
聞きますが、果たして清正相手にそれが通用したのかどうか。
一度、見てみたいものです。

 ところで、如水がキリシタンであったという説は以外にも
知られておりません。もっとも九州には大友宗麟のネームバリューが大きく、
彼以外がキリシタンを自称したところで相手にされるはずもないのでしょうが、
コアな如水ファンでもこの事に触れる人は少ないようです。

 もしも、如水が本当にキリシタンであったならば、アンチキリシタンとなる
秀吉と家康を如水はどのような眼で見守っていたのでしょうか。
彼の天下統一は野望からか、それともキリシタン迫害による
怨恨からなのか...さてさて...。


皇武

とある福岡県人の如水考

 如水について、僅かながら情報と個人的な論説を、ここに載せます。
1.只の隠居じゃない!
 筑前に移り住んで、福岡城の築城が始まり、それに付随する支城群も
建設されました。俗に筑前六端城と呼ばれ、その内の二城、若松城、黒崎城は、
一国一城令で破却されて後、残された城下町が発展し、
九州で第二の百万都市「北九州市」の一部を構成させました。
明治に官営八幡製鉄が築かれた洞海湾の重要性に目を着け、
この湾を扼する位置に支城を二つも配した彼の先見性は、なかなかのものです。

可児才蔵

如水は秀吉の『賎ヶ岳七本槍』に倣い、家臣達を鼓舞するため、
一騎当千の勇者を二十五人選んでいた。
はじめは長政も入れて二十五人だったが、
長政が家督を継いでから二十四騎となった。
永正八年(1511年)曾祖父、
高政は近江の守護職だった佐々木氏について、
岡山で戦ったが軍令違反が有ったかどで、将軍足利義稙の怒りに触れる、
近江国を逐われ流浪の末、備前国邑久郡福岡郷に落ち着く。
天象九年5月に隠居を決意し、
慶長九年3月 黒田如水、伏見の藩邸にて世を去る。享年59歳





投稿本当にありがとうございました。

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