第十七回(上杉景勝)

関東管領 真田昌幸

  上杉謙信の跡継はしってのとうり景勝です。
戦いの結果景勝が当主になったのですが、それでよかったと思います。
一番謙信のことを思ってるとおもうからです。
なぜかというと、関ヶ原の合戦。徳川軍が撤退していく時、
直江は追撃しようと進言しましたが、
景勝は謙信公のころより敵の背後を攻撃することはなかった。
というようなことをいいました。
作戦的には下策なのですが、これも謙信のこと、
教えを守るがためのことなんだとおもいます。


上杉景勝

生1555〜没1623 長尾政景の息子。母は謙信の姉の千桃院。 謙信の養子。
秀吉に臣従し、家康の牽制役だった蒲生氏郷の死後、
代わって会津に転封されて120万石の大大名になる。
が…家康の挑発にのって、関ヶ原合戦を引き起こした…。
その後上杉家は30万石に減封され、多くの家臣が去っていった…。
その中で最期まで家康に屈っしなかった景勝、兼続を愛し、
前田慶次はわずか500石の捨扶持で上杉家に留まった。
大阪の陣では、不識庵以来の陣法を守って、家康の使者に返事を
しなかったエピソードが有名ですね。



今井宗薫


上杉景勝は幼名を卵松といい、弾正小弼景勝を名乗るまで喜平次顕景といった。
魚沼郡上田庄の坂戸城主、長尾正景と上杉謙信の実の姉との間にできた。
そいて謙信の養子にはいった。謙信の亡くなった後、謙信のもう一人の
養子上杉景虎(北条氏康の七男)と「御館の乱」で戦い、これに勝って
上杉家の家督を継いだ。景勝は本能寺の変の後秀吉と好と通じ、
秀吉のために兵馬を戦場に疾駆させた。秀吉の亡くなる7ヶ月ほど前、
景勝は会津に移封された。景勝は越後を離れたが百二十万国の太守になった。
このとき直江兼続も米沢城主として三十万石を領した。
景勝はこの「ふところ刀」の兼続の力に負うところ大だが兼続を積極的に登用し、
その才腕を存分に揮わせた景勝も決して凡愚の将ではないと思う。
秀吉の死後、専横なふるまいの目立ってきた家康に抵抗する腹を
当初から決めていた。秀吉に恩があったからだろう。この行動から察するに
景勝は一徹者、律義者、正直者、であったと思う。あと、
大阪冬の陣で景勝は鴫野口の激戦で采配をふるっている時、
家康の使者が堀江忠晴と入れ替われといったが景勝は堀江に
虎口を渡そうとしなかった。そしてまた家康の使者がきたとき景勝は
「今朝より粉骨を尽くし、取った師場をなぜ他人に渡さなければいけないのか。」
と怒った。この時の景勝のい憤怒の形相には『越後の謙信の武門ここにあり』と
いった感じがでていただろう。私は上杉景勝は謙信以来の武威をよく残し、
謙信にも劣らない人物であったと思う。



五十公野 重家

上杉景勝の苦悩・・・


 景勝の人生は苦悩の連続だったと思います。まずは景勝が
謙信の養子になるにあたり父政景が謎の事故死、これにより
家中に政景謀殺説が流れます。これを収めるために母・仙桃院(謙信の姉)と
謙信公の配慮により景勝が養子になります。この段階で彼は
謙信公の跡継ぎ候補となります。しかしのちに栖吉(古志)長尾派が
景虎(北条氏康の七男)を跡取りとして謙信公に強く押していきます。
栖吉(古志)長尾とは上杉家の政治においての支流派、
方や上田長尾(上田衆)は軍事においての支流であり景勝の実家、
両家の対立は徐々に表面化していきます。
 そして謙信公の急死により両家の戦いが勃発、御館の乱へ突入します。
この当時信長とも臨戦態勢にあり、しかも景虎側には
北条家をはじめとして武田家もつく始末、
しかし景勝は兼続や上田衆、阿賀北衆の軍事力でこの局面を乗り切ります。
 そして天下は定まり秀吉の世になると景勝の中で転機が訪れます。
会津転封です。上杉家は元々地侍が多く
これにより有力家臣を二分されてしまいます。
景勝は悩んだ末これを受け入れます。
 このまま天下が収まっていればよかったのですが 秀吉の死により家康が力をつけまたも動乱。
いきなり家康にいちゃもんをつけられたら謙信公いらいの武門を通すため
喧嘩を買うしかありません。
関ヶ原への序曲上杉討伐が始まります。しかし
三成が挙兵したため寸前で回避。
このとき家康の背後を襲いたくても
行けない不器用なまでの武門としての意地。
 そうして結局米沢への減封。
 景勝の人生の中では謙信公を意識するあまり
正しい選択を分かっていながら選択できない部分が
多かったと思います。それでもこれだけの功績をあげるのですから
すごい武将だと私は思います。

可児才蔵

上杉謙信の養子でありその後継ぎである。
謙信が死ぬと彼に子供がいなかった上に
後継ぎが誰か表明していなかったため、
景勝ともう一人の養子・上杉景虎との間に跡目争いが起こる。
有名な御館の乱である。1年以上もの長きに渡り戦いが繰り広げられたが、
最終的に金銀の力で武田家を味方にした景勝が勝利した。
問題が山積みにあって滅亡寸前まで追いやられたが、
それを救ったのは他の戦国大名と同じく
1582年6月の本能寺の変であった。
これによりなんとか滅亡を免れた景勝は
織田家の中で権力を掌握しつつあった羽柴秀吉と手を結び、
小牧・長久手の戦いや小田原攻めなどに参加し秀吉の天下統一に貢献した。





投稿本当にありがとうございました。

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