第十五回(北条早雲)

今川国氏

  この人はなんていったら・・。
がまん強いくて、農民の気持ちがわかる
信長は早雲のおこなった政治を真似している。
これは調べて下さい



上杉景勝

北条早雲(1432〜1519) (正しくは北条早雲庵宗瑞,入道前は伊勢新九郎長氏)
早雲の妹・北川殿は,駿河国の今川義忠(義元の祖父)の側室になっていて,
今川家を足がかりに早雲は海道筋で名をあげようとしました。
しかし,頼りにしていた義忠が遠江国で戦死,北川殿が産んだ
竜王丸(氏親,義元の父)が幼かった為,義忠の従兄弟の小鹿範満を
たてようとする家臣達との間に争いが起こったのです。
この騒ぎを知り,駿河国を狙っていた扇谷上杉定正が太田資長(道灌)を派遣し,
堀越公方・足利政知も家臣の上杉政憲を駿河国に送り込んできました。
早雲は資長に会い「今川家の内輪もめを治めるから,任せていただきたい。」と
言い,資長は「我々も戦を好んでやって来た訳では無い。良い知らせを
まっているぞ。」
(これ侵略側からして,ややおかしく思えるが,資料が無いので
よくわからない…。)
そして早雲は家臣1人1人を説得して回り,家臣達は和解,太田らも引き上げた。
この辺りに,早雲は平凡じゃないのがわかりますねえ。(簡単には出来ないと
思う。)
早雲は,やがて小鹿範満を攻め滅ぼし,手柄によって1487年…伊豆国に近い
興国寺城を与えられる。(攻め滅ぼしたのか…どういう和解だったんだ?
小鹿が反乱か?)(-_-;)
1491年に早雲の生涯を左右する事件が起きる。堀越公方・足利政知が亡くなる。

政知には長男・茶々丸,次男・義遐,三男・潤童子の三人の子がありました。
政知の二番目の妻の円満院は自分の子ではない茶々丸を憎み、事有るごとに
悪口を告げていた。初めはそれを信じなかった政知も次第に茶々丸を
嫌うようになり,茶々丸の行動も自然に荒れてきた。
重臣の上杉教朝が政知に意見しても聞き入れられず,命をかけた訴えも
通じなかった。こうしたなかで政知は病死したのです。お家騒動は
政知の死後間も無く起こった。
茶々丸は円満院に従う者達に乱暴をしていた。
これに腹を立てた円満院は家臣に命じ,茶々丸を座敷牢に閉じ込めてしまう。
ある日,牢を抜け出した茶々丸は,円満院と潤童子を殺して堀越御所の主に
なった。
茶々丸はますます乱暴になり,家臣達も二つに分かれて争っていた。

やがて両上杉氏が上野国で合戦を始めました。
伊豆国の武士達は山内方として向かった。
「22年好機を待っていた。」早雲は500余りの兵を率いて伊豆国に
攻め込みました。
将軍代理の堀越公方を早雲が倒したこの時から,まさに下克上の世は始まりを
告げました。1492年,伊豆国を手に入れた早雲は,韮山城に入りました。

早雲がもっとも心をくだいたのは,領地の農民や武士達を
豊かにすることでした。
早雲が率いる兵達の多くが領地の農民でした。
農民達は近郷の仲間を呼び集めて早雲に従いました…。
それらの民にも土地を与え、また職人達にも土地を与えました。
年貢を6割から4割に下げたりもしました。こんな会話があったと思う…。
農民A>お優しいお殿様じゃ。ありがたいことじゃ。お殿様の為ならわしは
命も惜しくないぞ。 
B>ンだ。 
C>わしら農民も心は武士と同じじゃ。
職人>ほんとうに仏様のようなお殿様じゃ。
早雲は,国中の主だった者達を集めてこう↓語ったといいます。
●〜●まで。
●「国主が親なら民は子。これが昔からの定まりである。しかし近頃は
国主が欲を出し,農民達に重い税をかしている。国主どもは贅沢な
くらしをしているのに,民はくらしに困っている。しかし,わしが
この国の主となったのも深い縁があっての事だろう。わしはお前達が
豊かにくらせる事を願うばかりだ。」●
早雲の評判は上野国に行っている武士達にもきこえました。
皆急いで帰国し,早雲に従いました。早雲はこれらの者にも豊かな暮しを
約束した。
早雲の発言にこういうのもあります。
●「その昔,源氏と平氏は左右に並んで朝廷におつかいし,共に栄えた。しかし
保元・平治の乱の後は平氏が栄え,源平争乱の末,平氏は倒れて源氏が栄えた。
源氏3代の後,再び平氏である北条氏が世を治め,これが滅びて源氏の足利が
栄えた。
今,関東は山内・扇谷の両上杉氏が支配している。しかし,両上杉氏はもとは
藤原氏。世を治めるには相応しくない。幸いわしは伊勢平氏の出身だ。
源氏に代わっていずれ世にでる運命にある。今こそ両上杉氏を倒して
関東をこの手に治めるのじゃ。」●
う〜ん…長い…。早雲は伊勢平氏の子孫とも室町幕府に仕えた伊勢氏の
出身であるとも,また,備中国の伊勢氏の出身ともいわれます。
早雲は,関東支配と家の繁栄を三島大明神に祈願しました。
その時早雲は不思議な夢をみたといいます。
広い野原に二本の杉の大木がたっていました。ふとみると,1匹のネズミが
あらわれ,その大木の根をかじり始めました。そのネズミがみるみるうちに
巨大な虎になったのです。早雲は子年生まれ。二本の大木は両上杉でしょう。
この夢は,早雲の関東進出の決意をかためさせると共に家臣の戦意を
高めました。
この有名な逸話は創作だとも言われていますが…。
1494年,扇谷上杉定正は早雲の応援を得て,武蔵国高見原で
山内上杉顕定の軍と対決した。その合戦のさなか定正が馬から落ちて
大怪我をしたため,定正軍は総崩れとなり,早雲も無駄な戦で兵を失う事を
恐れて,河越城に退きました。
定正は怪我が響き,亡くなり,早雲は勝ち目が無いと見て,
韮山へ引き上げました。
じつは,定正の死に先立つ8月,定正の重臣である小田原城主・大森氏頼が
死亡していました。 
後を継いだのは,その子・藤頼でした。
早雲が関東進出の道を開くには,この小田原城を手に入れる必要がありました。
しかし,早雲はこの小田原城が,簡単には落ちない事を知っていました。
早雲はしばしば大森藤頼にあって親しみを深め,城内の様子を探りました。
クマの毛皮や鹿20頭などを貢ぎました。
そして密に兵を集めて,勢子の扮装をさせて狩りをすると油断させ,
戦の用意を整えて集まった数百人の早雲の軍勢は,日暮れを待って奇襲しました。
1000頭の牛にタイマツをつけて箱根山に追い上げておき,同時に別の部隊が
ときの声をあげて小田原城に押し寄せました。
驚いた小田原勢は戦いもそこそこに総崩れになり,大森藤頼も命からがら
逃げ出しました。
1504年,早雲は扇谷上杉定正の養子の朝良をたすけて,武蔵国で山内上杉顕定と
戦いました。この戦には今川氏親(竜王丸)も加わっていました。
しかし早雲は積極的に動かず,黙っていました。漁夫の利を
しめるつもりだったのです。
早雲の考えに気づいた山内・扇谷両上杉氏が手を結んだ時はすでに遅く,早雲は
上杉氏とは比べ様もないほど戦力を蓄えていました。
同じころ,越後国では守護代の長尾為景が守護の上杉房能を倒して,
国主になろうしていました。弟・房能のかたきをうつ為に越後国に出陣した
山内上杉顕定は戦死しました。
早雲は上田政盛に呼びかけて兵をあげました。主の扇谷上杉朝良に刃向かった
政盛は,権現山城に立て篭もりました。
扇谷上杉朝良は権現山城に兵を差し向けました。山内上杉顕定の養子・憲房も
応援を送り,権現山城は両上杉氏の軍勢によって落とされました。完全な
早雲の敗北です。
関東支配を目前にしながら,早雲の手はとどかず,この負け戦は早雲の目を,
相模国最大の豪族三浦氏へと向けさせました。
早雲が小田原城をせめてから,はや17年が過ぎました…。やはり
難しいのですね。
1512年 早雲は駿河国の今川氏,甲斐国の武田氏,信濃国の小笠原氏と
和を結ぶとともに領国の支配に専念しました。
早雲は三浦義同の守る岡崎城を攻め落としました。敗れた義同は住吉城へ
逃げました。
鎌倉に入った早雲は,伊豆国と同じように鎌倉の人々を治めました。
一方,氏綱はただちに玉縄城を築き始めました。その年の内に完成しました。
早雲は,住吉城に逃げ込んだ義同をさらに攻撃し,
義同をその子義意の守る新井城に追い込みました。
早雲の攻撃にも関わらず,新井城はなかなか落ちませんでした。
戦が長引いても城内の食べ物や水は豊富で三浦氏は弱まる様子も
ありませんでした。
しかし…それもついに尽きる時が………。(><)
義同・義意親子は家臣が止めるのも聞かずに打って出て戦死しました…。
この地でも早雲は年貢を減らしたのです…早雲は良い人じゃあ〜。
1519年,夏,老いを忘れたかのような早雲も病の床に倒れました。
早雲は88歳で死にました。
氏綱はその後をよく受け継ぎました。
1525年,扇谷上杉朝興の家臣 太田資頼を武蔵国でやぶりました。
1530年,扇谷上杉は氏綱を攻めましたが逆にこれを破り,
1534年には下総国にも勢いをのばしました。
山内・扇谷上杉氏,甲斐国の武田氏,駿河国の今川氏と対抗していく為に,
古河公方家の足利晴氏に娘を嫁がせました。初めて北条氏を名乗ったのも
氏綱の代からです。
1537年,氏綱は今川義元や扇谷上杉朝定と戦いました。
1538年には足利義明と下総国の里見義尭の連合軍をやぶりました。
しかし,名君といわれた氏綱も55歳で世を去りました。
そのあとを受け継いだのが氏康…氏康は学問と武勇を兼ね揃えた名将といわれ,
関東八カ国の大半を平定しておおいに北条氏の名を高めた。
1545年,両上杉氏と今川氏が力をあわせ東西から氏康を倒そうとしました。
両上杉氏は足利晴氏をかついて8万の大軍で河越城を囲み…。
氏康は8000の軍を率いて河越城に駆けつけました。10対1,万が1つにも勝ち目は
無いかと思われました。氏康は城と領地を渡す代わりに
兵を助けろと送りました。
上杉勢は氏康がすっかり参ったと思い込んで,油断しました。
氏康の精鋭が暗闇にまぎれて上杉陣に潜り込み,襲い掛かりました。
これが世に名高い「河越の夜討ち」です。上杉方の軍勢はちりぢりになって
逃げ帰り,扇谷上杉朝定は戦死しました。朝定の死によって扇谷上杉は滅びました。
氏康はついに祖父・早雲の念願であった関東の大半を手に入れたのです。
早雲が興国寺城を手に入れてから,じつに59年ののちでした………。

11年に渡って続いた応仁の乱がようやく終わって十数年が経った頃,北条早雲は
誰よりも早く戦国大名として名乗りをあげました。
堀越公方家の内輪もめに乗じて伊豆国を乗っ取ったやりかたといい,
小田原城を奪い取ったやりかたといい,
早雲の一生を振り返る時あたかも,大悪人であったかのような印象を受けます。
しかし,早雲は政治家としても多くの優れた面を持っていました。
100年に渡って関東を支配した北条五代の初代として,それに相応しい知恵と
実力を十分にかねそろえた……戦国時代の英雄だったのです。

うーん…かなり長くなってしまった…早雲の一生を振り返ると長くなってしまい
ますねえ…。これじゃクレーム来そうだ。(´▽`;)ゞ

島津 忠恒

北条早雲の出自には山城宇治説、大和在原説、伊勢素浪人説、
京都伊勢氏説、備中伊勢氏説の5つがある。
山城宇治説と大和在原説は1614年に成立した『北条五代記』に
「新九郎、後は早雲宗端と改号す。住国は山城宇治の人也。
又一説には大和在原ともあり」と記されている。
また早雲に従って関東に下った荒木、多目、荒川、大道寺といった名字が
宇治に多いという特徴もある。しかし、一介の国人の娘が
名門守護大名今川家に嫁ぐとは考え難い。
伊勢素浪人説は明治以降に発見された『小笠原文書』の
拡大解釈によって生じたものと考えられる。
京都伊勢氏説は近世成立の系図から室町幕府の政所執事を務めた
伊勢貞親の弟貞藤の子であるという解釈である。
京都伊勢氏ほどの名門の出ならばもっと記録
(どういういきさつで駿河に下ったのかなど)
が残っていてもいいはずである。備中伊勢氏説は
『別本今川記』『甫庵太閤記』『中国兵乱記』『蔭涼軒日録』などといった
文献から備中荏原荘領主伊勢新九郎盛時だという説である。
『北野神社家日記』の今川龍王丸宛幕府奉行人奉書から
駿河にいた伊勢新九郎とかつて京都で申次衆で働いていた
伊勢新九郎盛時が一致すると考えられる箇所がみつかった。
以上のことから早雲は備中伊勢氏の出自であると考えるのが妥当であろう。
『名将言行録』『北条記』などによれば、
「天下のことをよくよく考えれば、今こそ功名をたてるときと思う。
関東は永享以来、定まった主人がいないと聞いている。
そこで、みんなとともに東下し、功名をたてたい。」と
早雲が七人の仲間に謀ると、仲間が同意したので、
関東行きになったということのなっている。
つまり早雲は、野望の目的意識をもっって関東にやってきたことになる。
実際その後の早雲の足跡をたどるとき、伊豆乱入と足利茶々丸の討滅、
大森藤森をだまし討ちにして小田原城奪取三浦一族を追い込み滅ぼすなど、
まさに謀と奸を地でいったように見える。
伊豆や相模地方はそのころ、国人土豪層が各地に割拠し、
掘越公方ないし関東管領上杉氏や、その支えである三浦氏や大森氏に対し、
反発を覚えていたふしがある。早雲が一代にしてこの地域を席巻できたのは、
これら土豪の不満を吸収し、彼らの要求を満たす男と
とらえられたからに他ならないのである。
早雲は政治家として類いまれなる資質をもっており、
人心を掌握すべき情報力と方法論を持っていたからこそ、
戦国大名としての第一歩を踏み出せたのである。
いわば、カリスマ的な存在として登場したわけで、
土豪たちが早雲に連帯感をもったところに、
次代の主として認められる理由があったのである。
次のようなエピソードがある。ある時小田原で馬泥棒が捕らえられ、
早雲のところへ引き連れられてきた。そして、尋問されると、
さほど恐れるふうもなく、返答するのであった。
「いかにも馬泥棒です。だがそこにおいでになる方は
国を盗まれたのですから、私の方がずっと罪が軽いでしょう。」
早雲は「誉量者」としてこの男を許したというのだ。
これもひとつの出世譚の類いであるだろう。だが、
そこに人間早雲の政治家としての度量も広さをみれる思いがするのである。
「五公五民」から「四公六民」に税制をかえたことで、
早雲は領地を安定させたといわれる。だが、税制改革だけが、
領民にとってすべてではあるまい。
ここにも慕われる早雲をうかがえるのである。

斎藤道三

伊勢新九郎長氏。後北条氏の祖で、戦国大名の典型的人物。
伊勢国関に生まれ、駿河守護今川義忠の下に頼り、
ここで手腕を発揮し駿河興国寺城主となる。
1491年伊豆堀越公方足利政知の子茶々丸を殺し韮山に移り、
小田原の大森藤頼を襲ってここに進出。
ついで両上杉氏の内紛に乗じ相模・武蔵に進出、後北条氏5代の礎を築く。
北条姓を称するのは早雲の子氏綱の代からであり、
伊勢の姓も室町幕府の名族伊勢氏に系図をかこつけたものと考えられる。





投稿本当にありがとうございました。

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