第十四回(武田勝頼)
関東管領 真田昌幸
武田勝頼はだったのか凡武将か?ということを考えたのですが、父信玄とまではいか
ないとおもうのですが、なかなかの名将だと思います。
なぜかというと、信玄も攻め落とすのをすぐにあきらめた高天神城を落してますし、
家康が信玄が死んだというのを聞いて、武田領を攻めたらすぐに出陣して家康を退却させ、
家康に武田家はまだまだ元気というところを見せています。
私の結論から言いますと、父信玄が偉大すぎた、悲劇の名将ってところです。
今川国氏
あいつは、騎馬はすごい聞いた
だが、あいつは長篠で大敗した
ああなんだろー
一言でいえば親の七光
蒲生郷舎
私は、勝頼を凡将だとは、思いません。ただ、それは武将として
見たときの場合です。大名としては、三流大名だと思います。
戦に関しては天才の域に達していると思います。
信玄すら落とせなかった高天神城を落としているのですから。
勝頼が、もう少し頭がきれれば武田家もあんな無残な
滅亡の仕方はしなかったと思う。
あと人望もあれば・・・・・
石田三成
おそらく彼は親父よりも勇猛で、戦上手だったと思う。
ただ国を治める、政略で相手を弱体化させるといったことは
苦手だったと考えられる。全て信玄が偉すぎたのだと思う。
そのプレッシャーが長篠の戦いで無謀な突撃を敢行させてしまい
武田家を滅ぼしてしまったと思う。
光源院義輝
武将としての評価なら普通にやってもイイでしょう。
強かった。
が、武田家の当主としての場合には、
どうしても信玄も含めた上でないと
正確な評価ができないと思います。
信玄の死後、四郎勝頼は後継者として認められずに、
嫡子 武王丸の後見人である“陣代”に就任する。
が、対外的には当主だ。
その“陣代”が率いる武田軍。
信玄の遺した余力と勝頼自身の軍才で遠州 高天神城を陥落させる。
ただし、華々しい戦歴はこれだけ。
既に武田家は下り坂に入ってると思います。
長篠の大敗は、勝頼も確かに悪い。結果として敗けたから。
強い武田の名声は地に堕ちて、2度と甦ることはなかった。
でもコレ、ヘタな遺言を遺して旧臣達を縛りつけ、
組織としての機能を麻痺させた信玄の罪こそ、問うべきと思います。
信長は、武田との正面決戦を避けてた頃とは違い、
浅井・朝倉を滅ぼして大きく負担が減った。
弱兵と侮られる織田軍勢。
質の悪さは数と装備、それと戦術で補っている。
徐々に機能しだすと、鉄砲隊も増強するなどして一段と強くなり、
本格決戦をする機会を狙っている。
信玄が死んだ直後とは、目まぐるしく情勢が変わっている。
死人に現世は見えない。
なのに信玄の遺言に囚われ過ぎた一部家臣たちと勝頼の意見が
いつまでも合うことは無く、家は揺らぎ続けた。
中には勝頼が正しくなかったことだって
一部、あったとは思いますが。
信玄、一方で正論も遺した。
『死後3年の間は力を蓄えよ』って。コレは、ホントと思います。
多少は裕福になった甲斐ですが、
大軍を養うにはまだ弱かったハズです。
さらに金の採掘量の激減。武田家には死活問題と言える。
信玄が掘り尽くしたためで外征、敵国調略に大きく影響。
それどころか大きくなり過ぎた家は、
維持するだけでも ひと苦労。
他国を根絶やしにして領地を分け合えば、養っていけるだろう。
でも、大国になってからは臣従して兵も増えた分、
彼らも養いきらないと見限られる。
実際に、大敗により強国武田の神話は無惨にも崩壊し、
領国遠方では見切りをつけられ、寝返り、離反を受けていた。
それでもまだ10000を超える軍勢と、
ソレを支える領民も養わねばならない。
結局、本領甲斐の生産力向上がない限り財政の不安は解消されず、
この危機は到底乗り切れません。
『この間に立て直して勝頼の下、一枚岩になる武田家を創れ』
ってことでしょう。
でも、ムシが良すぎます。
信玄自身ですら甲斐国人を掌握しきれてなかったでしょうに、
ソレを諏訪家から突然入った勝頼にさせるのは
不可能というものです。
一般に旧守的ってことは、よそ者に冷たく排他的な訳だし。
外征に慣れすぎ、恩賞地という“エサ”に飢えた彼らを
抑えつけたまま、内政に従事することなんて絶対に無理。
安定収入が見込めない時に減税を施したところで、
一時的にしか黙らせられない。
ただでさえ“陣代”の身分で弱い求心力しか持たない勝頼。
大敗で一層失った信頼を回復するのは最期までできなかった。
その中で、領国拡大路線から政策の大転換。
その象徴は、勝頼主導で真田昌幸普請による新府城築城。
もはや超大国 織田家と渡り合う力なく、
外征もできないという判断は妥当。
領土拡張の見込めない武田軍としては、
防衛戦に備えるハメになる。勝頼の決断は決して悪くない。
このままなら信長がトドメを刺しに来るのは明らかで、
手をこまねいてる訳にはいかない。
が、領民には新たな負担だ。
一段と重税、普請手伝いに苦しめられ
『信玄様は造らなんだのに、御城とは・・』
当然、民心も大きく離れたことだろう。
国力に見合わない巨大な城だったこと、
良かったのかは判りません。
そのせっかくの城も、織田軍、徳川軍の
同時進攻に防戦も間に合わず未完成のまま焼き払い、廃城。
一門衆、甲斐衆の支持を得られずに見放され、
僅かな近習を伴っただけで悲惨な最期を遂げた
“陣代”勝頼の親子。
あの大敗後の状況では、
誰が武田家当主でも絶対に立て直せません。
窮状打開策としてよく考えられるのが、越後「御舘の乱」。
ここでの勝頼の決断は、失敗と見なされがちです。
まぁ事実、窮地に陥ったので。
どうにか仲裁しようと試みたそうですが、
ここでの越後の2人は“水と油”。
両者相手に和睦なんて、初めから無理でしょう。
喜平次景勝側から持ち込まれた破格の条件は確かに魅力でした。
だが、飛びついたおかげで最も頼りとなる北条家と断絶。
おかげで信長、家康勢乱入に対し、単独防衛戦を強いられた。
(実際は、防衛どころか自壊しただけだが)
ここでの勝頼。軍資金にすぐ とびつきたくなる程、
財政的に追いこまれてたのでは、と考えたくなります。
でも例え、北条と結託し越後問題を解決したところで、
彼らは信長の脅威をハダで感じることなく、
武田を“緩衝材”代わりに使うのがオチ。
家康とのつながりを活かして信長に従うことだってありそう。
ヘタすりゃ、保身のため北条まで連合軍に加わる恐れもある。
と、なると畿内のゲリラ勢力もほぼ鎮圧されて、
次に信長との決戦にさらされた西国大名と言えば、
毛利家しかない。でも無理、遠すぎる。
とても連携して信長を揺さぶれるとは思えない。
それに頼りない。
長曾我部家では、海を隔てた信長との決戦を
まだ実感できてない。
それどころか完成直前の四国制圧に手一杯。
頼みにすらならない。
やっぱり、単独防衛しか残されてないなら無理です。
勝頼の才覚とは無関係で、こればっかりはどうしようもない。
長篠の大敗を回避するために、
退却させて戦力温存に努めたとしても、
「領土拡張、領有国の国力増強(特に甲斐)、
新鉱脈発見」の3つ。
この内のいずれかが見込めなければ財政危機にさらされ、
外征も出来なくなる。
どのみち単独防衛戦に追いやられる。
その領内の防衛対策だって、
満足なのは北信州の“対越後用”のものくらいか。
信虎時代から続いた、今川家との長期同盟も影響したハズです。
信玄、おそらく攻め込まれる心配をしたこと無いでしょう。
対策が、とても充分とは思えません。
それでも、信州 上田城での真田昌幸による
鮮やかな いくさ振りが、
領内のどこでも展開できたとしましょう。
(外征がほとんどの武田軍で、
効果ある守り いくさができるかどうか不安。)
ですが、いずれは信長に手の内を読まれだすか、
防衛側の“ネタ切れ”で、
ジワジワと押されていくものと思われます。
そこでも、“長篠の戦い”が展開されることも充分考えられます。
結局、滅亡を遅らせる程度のことにしかならない。
抵抗して長期持久、消耗戦に持ちこんだところで、
国力差で武田が先に消耗する。
そこで毛利が背後を衝くだけの
機敏な行動に出られるとは、到底思えない。
武田家が単独で信長を追い払えないのなら、何やったって一緒。
勝頼へ代替わりする以前。信玄の時点で、
1.新金山もしくは、金山以外の
安定収入の確保と生産収入の増加。
2.国衆の寄り合い所帯的組織からの脱却。
3.東美濃、遠州、できれば三河までの早期制圧。
この全ての問題を解消し、実現化した上で、
『将軍 義昭の要請に応えて速やかに西上行動を起こし、
反・信長連合と連携を取りながら信長を窮地に追い込む。
充分な下拵えを済ませ、それから決戦に持ち込む』
味方がたくさんいる間に、
そうしなければ おそらく生き残る道はありません。
もう、ソコまで行き着かないと無理でしょう。
信長が武田より裕福な基盤を持ち続けられる限り、
必ず信長から狙われ続けて、
圧倒的な国力差の前にブッ潰されます。
なにも武田滅亡は、勝頼1人のせいじゃありません
可児才蔵
武将として考えればとても戦が上手い、強かった。
高天神城陥落は見事であった。・・・が、
大名としての能力は褒めがたい・・・大名には不向きだった。
信玄が死ななければ、武田家のその後は変わっていたと思う。
投稿本当にありがとうございました。
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