第十回(豊臣秀頼)

上杉景勝

  1593年誕生〜1615年没。豊臣秀吉の次男、母はお市と浅井長政の娘・茶々(淀君)
兄が生まれてまもなく死んだため、秀吉の死後、豊臣家の家督を継ぐ。
公家として順調な出世を遂げたが、母や側近が豊臣家の天下を諦めきれなかったため
大阪の陣が勃発。その敗戦時、大阪城の一角にある蔵の中で焼死。
母の過保護のため、ほとんど城から出なかった。
もちろん馬(太平楽などの名馬がいた)に乗ることもほとんどなかった。(全然かも?)
(豊家の馬印が戦場に立てば、大阪の陣の展開は間違いなく変わっていたと
思われるだけに、天下の名馬太平楽が、飼い殺しにされたのは惜しい)
そういう人物だから、当然世間知らず。19歳で初めて牛を見たという。
また、秀頼はサザエが大好物で、毎食これを求めたが、ある時どうしても手に入らず
困った近習が「サザエは片桐且元(秀頼の近従)が全部持ち去りました」と
苦しいいいわけをした。これを聞いて秀頼いわく
「なんじゃ、且元はサザエの木までもっていったのか」。サザエになる、と
信じていたらしい。(母親のせいだろう、やはり、海を見た事もなかったかも?)
家康は秀頼を「賢明な人物」と評して恐れていたが、これでは幼児と変わらない。
大阪の陣の開戦も、本人ではなく、周囲の意志。
彼が何をどう考えていたかは、まったくわからない。
よって、才能の評価(能力の?)は、しにくい。悲劇的な人といえばそうだが。


前田利家

  難攻不落の大阪城で秀頼、淀君が切腹したと、言われますが。
秀頼は抜け穴から脱走した、と言う説があります。


石田三成

豊臣秀頼については、大野治長の子とかゆう説がありますが
やっぱり秀吉の子だと思います。なぜなら秀頼自身
「自分は、太閤秀吉の子だ」といってるので。大坂城を枕に
討死しようというのも血筋だと思います。
千姫との仲も円満だったと思います。落城の際お互いつらいものが
あったと思います。そこに「秀頼同情論」のもとがあると思います


井伊直政

秀頼は反面、淀君が主導権を握ったので
ある意味秀頼は隠れてしまいます。
しかし、賢いので、淀君が主導権を
握らなければ大坂の陣も起きなかったと思います。


ラン

井伊氏の書き込みへの反論

賢い君主なら主導権を母に握られたところで側近や重臣を使い
愚かな母親を幽閉する、遠ざける、怒鳴りつけるなど
いくらでも方法があるはずです。
それができなかったのが彼の優しさゆえであったとしたら
それは政治に私情を持ち込んだバカ殿にすぎないと思います。
徳川家康が会談後に彼を賢人だと誉めたと言いますが
それはお茶を点て歌を読む文化人としての事であり
決して民を守り敵を打つ武人としての意味ではなかったであろうと思います。


奥村助右衛門

この人は「悲劇」が似合う武将ベスト5にはいると思います。
母親の淀殿が過保護すぎるために世間を知らず死んでしまったが、
もし小さい頃から教育を受けていたらあの秀吉の息子ですから
父親をしのぐ程の武将になっていたと思います。しかも、
まわりに福島などの有能な武将がいるので徳川と同等か
それ以上の勢力になっていたでしょう。なんとも惜しい人物です・・・。

光源院義輝

 ホント可哀想な人。秀吉と淀殿せいだ。
バカ殿と評価するしかないね、おそらく。
可愛がるくらいなら、犬や猫飼ってるのと変わらない。
トップ・ブリーダーって、ちゃんと仕付けするよ。
(余談ですが、よく聞く「殿様の乱心」ってのは、
どうも叱られずに甘やかされて育った人に多いそうですよ。)
家臣の育て方なんて知らない秀吉には無理な話だとは思うけど。

 せめて正則、清正に“武芸指南役”でもやらせて、
“帝王学”は黒田如水にでも学ばせなきゃ無理、将器は磨かれない。
利家に頼んだって、秀吉と同世代の老体がどれだけ生きられようか。
 それを秀吉に進言できるのは、三成だけ。
でも仲悪いし、「秀頼元服後には彼らが優遇されて自分は今の地位を失う。」
そう捉えたと思いますよ、三成なら。治部殿は小心者だと思いますんで。
でも、秀頼の傅役に推挙したのが三成だと知れば、彼らも三成を見直す。
うまくいけば、彼らが秀頼の下に結束できる唯一の機会だったでしょうに。
 『成功する人は周囲に恵まれて、失敗した人は全く恵まれない。』
この当時でも、ある程度当てはまると思います。
その見本みたいな人でしたね。
 そういや、この人おじーさんよりおとーさんの方が年上なんだ。なんか複雑。

足利義輝

 豊臣秀頼は凡才というより母に逆らえなかったのだと思います。
 大阪の陣の時も秀頼自身は出陣しようとしていたらしいのですが
 淀君にとめられたそうです。
 淀君がいなければ有能だったのではないでしょうか。





投稿本当にありがとうございました。

戻る