第一回(徳川家康)
永蓮寺初二
ズバリ、家康は律義者でしょう。タヌキ親父と評する人もいると思いますが・・・。
家康がどれだけ義理堅いか、それは姉川の戦いで証明できます。
この戦いはあくまでも家康の盟友・信長が信長包囲網を形成する浅井・朝倉と
戦った私戦です。当時の家康としては三流の家臣に1000の兵をつけて
姉川に参戦させれば、織田への義理は果たせたと思うのです。
その戦いに家康自ら5000の兵を引き連れて、参戦したのです。
それに対して、信長はどうでしょう。武田信玄の徳川侵攻(三方が原の戦い)
で徳川家に送った援軍は3000しかも総大将は平手汎秀という三流武将。
(確か覇王伝にでていたような・・・・・・・確かな記憶なし・・・・・・・・・・・)
当時の織田の国力から考えると3000はあまりにも少なすぎです。
まあ、織田・徳川の対等同盟自体に疑問の声がありますが(信康事件等で)・・・。
でも、家康は信長との同盟をよく守ったと思いますよ。
では、何故家康はタヌキ親父と呼ばれるのでしょう。
恐らく原因は秀吉死後の豊臣政権乗っ取りにあると思うのです。
でも、私は家康が豊臣政権にとって変わったことは悪いことではないと思います。
秀頼に忠誠を尽くすのが武士道というものだという人もいると思います。
しかし、豊臣政権は秀吉一代によってつくられて、まだ磐石なものではなかったのです。
もし、秀頼の家臣のままであったら(名目上ではなく実際に)、
石田三成ら文治派と加藤清正・福島正則らの武闘派の対立がひどくなり、
内乱・・、そして戦国時代へ逆戻り・・・・・・・・、そしてそこに西欧諸国が介入してくる・・
という風になっていたかもしれません。
まあ、武田信玄・豊臣秀吉といった名将と戦い、戦国の世を生き残り、
最後に天下をとった家康はまぎれもない英雄でしょう。
本多忠勝
元亀三年(1572)十二月二十二日、かねて念願の西上を果たすべく
信玄の大軍は野部の陣を引き払い、家康の浜松城を無視し、
別路をとって東参河(三河)に向かった。家康は軍議を開き、
出陣の意向を提示したが、甲州軍の精鋭を恐れ、誰一人賛同する者がいない。
家康は声を張り上げて叱咤し、「敵が我が城を踏みつくるに一矢も酬いざるは男子にあらず」
直ちに浜松城を出て三方原に至り、信玄の軍を迎撃した。が、予想だがわず散々の敗北、
主従五騎ばかりになって命からがら浜松まで逃げもどった。途中、高木九助という者が、
法師武者の首を討ち取って持参したのを、家康は見て言いつけた。「早くその首を浜松城門まで持ち帰り、
信玄の首を討ち取ったと呼ばわれ」城中は敗軍の噂に大騒動になっていたが、
高木の声を聞いて、上下共に勇み喜んだ。嘘も方便、これを使い分けた家康の豪胆さには流石に頭が下がる。
この豪胆さんを兼ね備えていたからこそ、天下を手にいれたのであろう。感情に支配されながらも
冷静な判断ができる家康だからこそ幕府創設までこぎつけたのであろう。
徳川吉宗
家康は戦いがうまくただ一度負けたのが三方が原の合戦て゛武田信玄の誘いに
乗ったため敗北しました。あのとき武田信玄が岡崎城に攻めていたらいまごろ
江戸幕府はなかったでしょう。この負けで 家康は信玄を戦いの師として、
井伊を赤備えにして 先鋒にしたそうです。武田の再興をはかったの
ですが息子の死によりそれもならなかったですね。
武田信玄
徳川家康が天下を握った理由は運でしょう。あとは長寿でしょうな。
今川義元が45000の軍勢を率いていながら織田軍5000(または2000)に
桶狭間に討たれ家康は岡崎に帰ることができました。そして織田と同盟し
今川征伐にのりだしました。また三方ヶ原で武田軍に敗れ信玄の病が悪化したため助かりました。
そして信長が本能寺にて討たれ徳川は信州を得てたちまち五大国を治める大大名になりました。
これらは家康の運の強さを示している思います。
秀吉が死に豊臣がまとまらなくなり家康はそれに付け込み関ヶ原の戦では勝利し
とうとう天下人となりました。これはまさに家康の長寿こそがなしえた出来事だと思います。
永連寺殿は家康を義理堅い人物であるといっていますがはたしてそうでしょうか。
家康はお家のために家臣達と自分の妻子を見捨てて織田と同盟をし大恩ある今川家を
攻め滅ぼしてしまいました。また信康と正室の築山御前までもお家のために殺してしまいました。
これらのことを振り返ってみると家康は義理堅いのではなくお家を第一に考え感情にゆすぶられず
行動していたのではないかと思います。
三方ヶ原で浜松に篭もらず迎え撃った家康は「我が領内を素通りされてだまっていては
武士の名がすたる」といい11000で出陣し大敗をけっしました。もしこのとき信玄の病が
悪化していなければ家康は武田に降ったと思います。なぜなら武田軍は二部隊による侵略作戦を
行っていたからです。信玄が甲斐にもどり別働隊がひきかえしていなけらば遠江と三河を分断する
ことができます。わずか3000の援軍しか送ってこない織田のために死ぬことはありません。
たとえ三河の信康が対抗の構えをとったとしても家康は降っていたと思います。
家康が天下を取ったわけは家康の戦上手や人望によるところもあると思いますが
やはり最後は家康の強運と長寿だと思います。
徳川宗春
ズバリ、徳川家康はなぜ幕府を開けたのかといいいますと 勇敢な武将、
屈強な三河武士、叡智なブレーン、それから
自らの武将としての素質もetc・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
それから家康の人脈にも天下統一を可能に要素含んでおります。
今川義元、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
まず家康は今川の家で人質となつておりました。そこで耐え忍ぶことを知り、
また武田信玄からは、巧みな戦略・戦術を学び取り、織田信長からは、
徹底的な合理性を得。さらに秀吉からはなんと自らが建てた名城・大坂城の
落とし方を学びました。あとこの人がいなかったら家康は死んでた
かもしれないといえる人がいます。その人は服部半蔵。
有名な伊賀越えは家康にとって絶体絶命のピンチだったのです。
それを救ったのが忍者軍団の首領・服部半蔵なのです。行動を供に
しなかった穴山梅雪は一揆にやられてしまいましたね。
ひやひやもの絶体絶命のピンチを救ってくれた忍者はこれによりか
なり結びつきを強くなったのですね。また彼等の死によって天下は
取れたのです。義元が桶狭間で死ななければ、家康は今川の
一部武将に終わり、また信玄が死ななければ徳川の血は滅び、
本能寺の変がなければただの盟主で終わり、秀吉がさきに死ななければ
天下は豊臣のものだったでしょう。
これらの偶然が重なり必然となりて、天下は徳川のものとなったのです。
小笠原長時
徳川家康という人物は、時代の先行きを見極めるのに
非常に優れた武将と考えまする。
歴史の結果から家康の歩んだ人生を見ると正に「棚からぼたもち状態」に
取られがちあるが果たしてそうであろうか?
家康に時代の先を見据える鋭い先見の目があったからこその偉業では
なかったのだろうか?
家康の行ったさまざまな決断を例として紹介致しとうござる。
1)信長との同盟
まずひとつめに今川義元が桶狭間にて信長に討たれた後、
独立した家康には幅広い選択枠があったにもかかわらず
信長と同盟を結んでいるということ。列強がひしめく時代、
義元を討ち取ったとはいえその時点において信長は
尾張一国も統一していない状況下にあり、東には名門武田家
、
関東の雄北条家、北には名家朝倉家及び浅井家などがいるにもかかわらず、
彼らとは結ばずに信長を何より優先した状態で選んでいるところに、
やがて風雲児たる信長の姿を見据えてたに違いないのではなかろうか?
2)秀吉への帰順
小牧・長久手の戦い以降、家康は秀吉の天下統一のために
尽力することになっていくわけで ござるが、
この時点においても家康には数々の選択枠が用意されていた。
家康にしてみれば 秀吉は信長の家臣であり自分は同盟者である、
同盟者の家臣である秀吉に帰順することなく 西国の毛利、
関東の北条等の諸大名との結びつきを強化し、天下を狙うことも
有力な枠である。あえて秀吉への恭順の道を選択したところにも
うかがい知ることができるのではないだろうか?
同じく有力大名であった北条家を見たとき、時代の先を
見据えられない者の末路を見ることができる。
3)関ヶ原の戦いでの勝利
関ヶ原の戦いでは、豊臣政権下に分裂の兆候があったとはいえ
豊臣恩顧の武将が多い中での戦である。まして西軍は、京都、
大阪等の主要都市を押さえており、更に朝廷及び秀吉の後継者秀頼、
無傷の大阪城をも手中にしていたわけである。
更に付け加えるとするならば、決戦地、関ヶ原においては秀忠以下、
徳川家家臣団は到着していないのである。そのような状況下においても
あえて決戦の決断をし、見事勝利を手にしたことは神がかりとしか
言いようがないほどである。
もちろん優れた情報収集能力があったことはいうまでもないが、
その情報を正確に分析し冷静な判断力で時代の先を読み、
決断出来るというところが家康最大の特徴であり、
そのような結果家康が天下を握ったことは、当然といえば
当然の結果だったのかもしれぬと考えている次第にござりまする。
沼田 祐光
皆さんの書かれた色々な理由が積み重なって天下を統一できたんでしょうね。
さすがだと思いました。そして私は家康の行った政策について考えてみました。
彼の政策で信長や秀吉と明らかに違う点は、当時の常識である
畿内中心の流通システムを重視していないことだと思います。
楽市楽座や大阪を押さえるといった信長や秀吉の政策は、
流通を牛耳ることによって天下を牛耳るやり方でした。
事実、畿内は流通の3/4を占めていたわけですが、
信長や秀吉はその中心地・京都に1日で着ける安土や大阪に
本拠地をおいています。これに対し、家康の本拠地は江戸です。
これは確かに秀吉に追いやられたせいですがそれだけでなく、おそらく
・ 京都と江戸という二点間にすることで物流の拡散をねらっている
・ 世の中を動かすのは商人ではなく武士であることを明らかにする
といったねらいと共に、戦国の世が終わり新しい時代の到来を
示唆させたかったのではないでしょうか?
その他にも家康は秀吉の強硬外交から穏健外交に切り替えるなど
、
政策にその繊細な性格が表れたりしています。
ですから、家康は一流の政治家でもあったのだと思います。
今川国氏
徳川家康は
鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス
完璧のうそです!(笑)
人質は逃げれないのが方式
逃げれないのでまとうはおかしいのでは?
これこそ注意するてんです
本当は織田なんだっけ?
殺されかけました
でもあの人はうまく利用できるとおもって殺しませんでした
家康公には不幸ですが(笑)
ここは評価コーナーなのであのときああしてればよかったなどとはいいません
いいたいことはただひとつ家康一人の力で幕府はなりたたないこれがいいたい
それにわたし 徳川家康=戦国のペテン師 すいません(笑)
関ヶ原でも何人ものの武将をだましました
「三成が兵をあげてきた 豊臣に恩をおもうものはかえってよい私は
だれも恨まぬ」でもそれで帰ったのは約2大名でした
その2大名は殺されました
織田信忠
みなさまいろいろと書かれていますが、信康切腹や江戸への転封など
数々の屈辱に家康が耐えたのは天下への夢があったからだと思います。
夢のためにはどんな事にも耐え抜く。天下を狙うべき者の姿ではないでしょうか。
個人的には家康は持っているシュミレーション小説の全てで
ラスボス(爆)なのであまり好感は持てないのですが、
人間としては立派だと思います。
足利高氏
徳川家康
私の第一印象からいいますと
戦国の長老
信秀ぱたり
義元ぱたり
信長ぱたり
秀吉ぱたり
三成ぱたり
家康の天下!
今川義元の人質として,駿河にはこばれる途中,織田信秀の手下につかまり
織田何とかという人の人質交換で駿河に戻される
そして桶狭間,義元ぱたりで家康独立(独立という表現はおかしいとはおもいますが)
織田の手下的存在になり
自分の子供も殺される
ああ無残な
姉川の戦い,長篠の戦いで活躍
そして本能寺での伊賀越え
なんとまぁ波乱万丈な
自分にはできっこないです
人望があったのでしょう
秀吉にもこきつかわれ
そしてぽくり
三成という馬鹿ちんを(笑)倒し
家康様の天下到来
ですが後の政治はなっとくできません
外様無視(これは家光からかな?)とか・・・
またなにかありましたら御報告させていただきます
光源院義輝
あまり目新しいこともしてなさそうなこの人が、天下人になれたのは、
運が良かった。ズルかった。言い切っていいと思います。
ただ、現実を見る目、これは当時の人の中でも
割としっかりしたものと思われます。それと我慢強さ。今川を見限り、
信長の飛躍に期待をかけたこと。これは
どちらへ攻め入ると楽かってことからでしょうか。
浜松に入ってからは我慢の連続。武田相手に戦わずしての退却戦、
鬼の居ぬ間の領地回復もすぐ獲り返される始末。姉川の戦い以後、
織田領へ援軍出兵するゆとりはなくなり、武田の圧力をどう凌ぐかで手一杯。
馬上でクソを垂れた日を耐え忍んで、長篠で勝ってもらいゆとりが出る。
だが、ここで試練。嫡男を失う。信長は、武田と通じてる事なんか
絶対信じてなかったハズ。というよりも信長自身の作り話ではないのか。
信長が問題にしてたのは岡崎三郎母子ではなく、『家康は、
どこまで自分についてくる気なのか』ということ。
岡崎三郎がどれほどの武将かは、他の弟たちより少しマシという程度だろうか。
でも家中からの期待の高さを考えたら相当の痛手。かといって、
信長相手の戦では家が潰れる。
結局、家康に現実を忘れた決断はなかった。
嫡男を捨ててまで信長の傘下で強くなる事につとめる。
この頃はそれ程でないにしろ、信長が大きくなるにつれて家康も大きくなる。
だが制約も大きい。
そこで本能寺。信長が死んでくれた事を嬉しがったハズ。
自分が悪者にならないまま、おもしが取れた。光秀に感謝。
その後は、織田家中で地位を高めて実権でも獲れれば・・、
なんて考えてただろう。
誤算は、秀吉の奮闘ぶり。弔い合戦の功労者として
織田家中での発言力を高め、柴田勝家ら反対派を排除。
もう40歳そろそろか、という時にそんな電光石火の秀吉を見ながら
部外者としては自分から出ていけず、
覇権争いに加われない焦燥感もあっただろう。
が、幸運は残ってた。信雄が泣きついてきて一躍表舞台に出られた。
家康に頼る前に信雄が降れば出られない。織田家臣でもないので
秀吉と戦う大儀、理由がない戦を仕掛けるわけにはいかず
(野戦で上回っていても、国力差は明らかで長期戦は不利。
四国征伐が済めば秀吉は対家康戦に専念できる。)、やむなく同盟となろう。
しかも信長の時と同様の力関係がハッキリした同盟となる。
(信長とは対等になってはいるが両者の力関係は明らか。
信長が優遇するほど、劣る家康側は懸命に働かなくては関係が保てないし、
信長を差し置いた行動もできなくなり、
常に信長を意識し続ける必要がある為)これでは、信長が死んだ意味がなくなる。
実際には、小牧・長久手で野戦に持ち込めた。黒田官兵衛、
小一郎秀長ら抜きで戦えたこと等、家康に良い状況が揃い出す。
最後は、人たらし秀吉が裏から手を廻し信雄を丸め込んでしまったが、
家康としては、ほとんど唯一上回ってる野戦によって
自身の存在価値を秀吉に改めて印象付けられた。
秀吉の勝ちにはなっている。信雄を降したら、
荷担した家康も処分する必要がある。が、野戦でイイところは、
全部家康が持っていった。困るのは秀吉。屈服していない相手でも
臣従させなければ勝者として示しがつかない。
家康は、妹、老母を差し出してきた秀吉に、
しぶしぶ仕方なく頭を下げてやった。
頭下げたって心服まではしていないこと、
真の上下関係がハッキリしないままの臣従、
これが信長の時以上の効果を持ち出す。秀吉が天下人になるにつれて、
家康の待遇も良くせざるを得なくなる。それに対し、
形だけでも応えていく為、関東に押し込めるのが精一杯。
何しろ評判がイイし、ヘマもやらない。罰する理由を無理矢理つけてでも
家康を処分すべきだったのに、朝鮮にすら飛ばせず秀吉は
せっせと危険人物を育てていったことになった。
白黒ハッキリつけないままの人のいい秀吉に、家康は救われた。
だいたい、この評判というのも家康が撒き散らしたのでは
と考えてしまうのは、言い過ぎでしょうか? 確かに、
信長、秀吉への忠節ぶり誉められますが、今川家を見限った事、
義元の『元』の字まで捨てた改名(上の人から貰った名前を
簡単に捨てる者は、相当、評判悪いらしい。)、
ここまで含めたら義理堅いとは言わないと思います。
ホントに義理堅ければ、アホの氏真を援けて今川家の柱石となっているハズ。
信玄、信長、秀吉と自分より強いものがなくなり、
利家のニラミ(効いてたわけじゃないけど、
評判が下がり利家が上がるのがイヤ)もなくなったところで本領を発揮。
豊臣政権の最高権力者として好き勝手やっていく。
この時点で、人物で上回ってるのは如水のみ。だが、
誰も坑しうる軍事力までは持っておらず、何か言おうものなら
家康から睨まれ己が危うくなる。藤堂高虎のように
御機嫌取りに励んだりする者まで現れ、結局、罰せられないまま。
こうして、諸侯の親・家康、反・家康をハッキリさせ把握した。
次に、反対派、危険人物の力を削ぐこと。関ヶ原に至るまでと、
終戦から論功までの手際の良さは、評価に値する。
自らの懐を痛めることも無く、他家の兵を使って名を高めることに成功。
ただし、知恵をつけ尽力したのは、坊主どもや本多父子であって、
野戦指揮以外は家康主導ではない。
最後に大阪の陣。幕府の地盤固めに重点をおきながら、
三成亡き後の豊家を見極めていたのだろう。
関ヶ原後から開戦まで時間を費やした。知恵袋達は、
関ヶ原以上の難癖外交で豊家を困らせ、資金の放出を図り、
『自らの力を誇示しながら、勝てる戦をより無傷で』に向けてぬかりがない。
70歳過ぎたいいジジイの家康にあれこれ考えるだけの頭はなく、
方針だけ示せば後は周りが動くだけだ。逆に人材不足の豊家は、
いじわる徳川と現実認識不足の淀殿に振りまわされるばかりで、
関ヶ原と小田原の教訓すら活かせなかった。放出資金の中には、
そのまま徳川の懐に収まっていたものもあることまで
把握できていなかったらしい。その後も豊家の無能ぶりは発揮され、
徳川の策がものの見事にハマっていき滅亡へ追いやられた。
信長存命時は、知恵袋達の働きは無い。
よってほとんどは家康主導なのだが、これといった政策もなさそう。
あるとすれば、『徳川への改姓』を求める朝廷工作くらいか。
ケチで知られる家康がこの時ばかりは、ふんだんに金を使ったようだ。
足利よりも清和源氏嫡流にあたる新田流徳川氏に目を付けたことは、
後の開幕に好影響を与えた。ここまでを明確な目標として、
今川家からの独立から40年がんばってきていたのなら瞠目に値する。
徳川(松平)家より大きな家はいくらでも在ったのに、
1 代で頂点に昇り詰めたこと、普通じゃ考えられない。
偶然が重なったこともあるだろう。
でも、結果がついている。もしかしたらホントはすごいのかも・・・
と思えてしまうが、その後の幕府が良かったかと考えれば、
結局たいしたこと無い。徳川だけが強く、豊かになることに躍起になって、
他家、庶民を押さえつけ苦しめていたにすぎない。
家康がしたことでなくても方針を遺したことには間違いなく、
よって家康が優れていたとは言い難い。
それでも最後の勝者となり得たのは、時代と場所、
周囲の敵味方を含めた人物と全てにおいて恵まれたこと、
やっぱり運がいいんでしょう。
ちなみ
私は変わった視点から人物評価をしてみたいと思います。
史実上の信長、家康、秀吉の性格を心理学で分析したいと思います。
外向⇔内向 感情⇔理性 直感⇔現実
判断⇔柔軟 緊張⇔回避
以上の五つで分析したいと思います。
徳川家康・・・内向、理性、現実、判断、回避タイプ
無口で無表情な人だったそうなので、思考的には内向型。ただし、
三河の国主として、後には天下人としての役割をきちんと果たしたので
社会的外向型。必要以上に感情を高ぶらせることがなかったようなので理性型。
政治についての計画があり、それを実行したので現実・判断型。
信長や秀吉とうまくつきあってたそうなので回避型。
「このタイプは一見すると内向型には見えない。社交的であり、
それと同時に冷たさを感じさせることがある二面性がある。
情緒は非常に安定していてヒステリーの気質はない。
どんなに困難な問題でも合理的な解決法を考えて、粘り強く目的を達成する。
情報分析は的確で、人の考えを的確に見抜く。
リーダー、サブリーダーとしての資質も高い、などの特質がある。
それとなく頼れる存在であり、彼の重要さは周囲の想像以上に大きい」そうです。
日光山
私の家康評その一
皆さんが家康公に抱いてるイメージは、どのようものであろうか。
多分、あの有名なホトトギスの句のように、忍耐して天下を取った
狸おやじのイメージを抱いている人が多いことと思う。
確かに、家康公にはそういう一面もありますが、それだけではありません。
耐えただけでは、あれだけの戦乱に終止符を打てるわけありません。
家康公には、そういう消極的なイメージとはウラハラニ、勇猛な武将としての一面があります。
それを証明するのは、決して難しい作業ではありません。
三河一向一揆での戦いぶり、金ヶ崎でのしんがりに秀吉を助けたこと、
姉川で三倍の朝倉勢に向かって行き勝利の原因を作ったこと、
小牧長久手で誰も織田の旧臣が助けない中でも、家康公だけが信雄を助けて
苦敗を秀吉に与えたことなど、たくさん残っています。
当時の評に、耳臆病な武将と言われたとあります。
その意味は、合戦が始まるまでは臆病といわれるくらい念入りに調査したり、
情報集めたりするが、合戦が始まると先頭にたって戦うみたいなことじゃないかと思う。
後、家康公は保守的で、信長や秀吉みたいに商業や貿易のことを考えなかった
農本主義者という人が後を立ちませんが、これについてはその二で述べたいと思っています。
日光山
家康公の評価その2
家康公を、保守的だとか、鎖国主義で農本主義と非難する人は、後を絶たない。
そういうことを言う人は、家康公の事を全然調べもせず、
ただきらいなだけで述べているだけだと思う。
まず、朱印船が秀吉のときより、大幅に増えている。
商人だけでなく、西日本の大名にも与えている。
次に、関が原の直前、豊後に漂着したウイリアムアダムスやヤンヨーステンに、
五万両もの大金を惜しげもなく与えている事。
そして、ウイリアムアダムスやヤンヨーステンを召抱えている事。
外国人を召抱える事は、わが国の為政者はそれまで誰もなしていない。
ようやく、明治政府がお雇い外国人として採用するまでは。
また、武芸や馬術、学問にも熱心だし、そういうところは信長、秀吉以上です。
江戸幕府が、265年間保ちえたのは、フロックではない。
坂本竜馬
家康の弁護をしたいと思います。
皆さんの家康批判をまとめてみますと
1・家康は運が良かっただけ。
2・家康は家来が優れていただけ。
3・家康は長寿だったから天下をとれた。
4・家康は狡猾だった。
等です。
家康は決して運だけで天下を取れるような幸運の持ち主では有りません。
むしろ、彼の人生には破滅への落とし穴が幾つも待ち受けていました。
もし、彼が桶狭間の戦いの後も今川についていれば、
三河武士団は彼を見限ったでしょう。
三河武士団だって今川時代のような待遇を受け続けるのはイヤでしょうし、
期待していた家康が今川に属し続けるとなれば彼等も考えるでしょう、
別に松平氏ではなく酒井氏を立てても良いわけですから。
そしていずれは武田信玄の南下により
今川氏共々滅亡という事になったかも知れません。
落ち目の今川氏を捨てて独立、日の出の勢いの織田氏と結んだ事で
家康は第一の落とし穴をクリアーした事になります。
当時、日本全国で一向一揆が多発していました、
当然三河でもこれが起こり家康も家臣団のほとんどが一揆側に走るという
(あの本多正信でさえ!)危機的状況がおきています。
もしここで家康が信長のように力ずくで一揆を抑えようとすれば、
徳川家は四分五裂し滅んでいたでしょう。
家康は自分の宗派を上手く利用しました。
彼は浄土宗なのです。「同じ阿弥陀如来を信仰する仲ではないか」という事で
家臣を帰順させています、無論、離反した家臣達の
罪を問うような事はしていません。
また陣頭に「厭離穢土 欣求浄土」という幟を立てる事により
浄土宗の信者も一向宗の信者も奮い立つという事も行なっています。
まさに「災い転じて福と為す」であり、この柔軟な対応により
徳川氏は滅亡から逃れる事となります。
余談ですが家康の祖先から存牛という
浄土宗の高僧(知恩院貫主)が出ており、家康が先の幟を立てる事を
一向宗の信者が許したのはそのためだと聞いた事が有ります。
さて織田信長と同盟した家康ですが、その後武田氏の勢いに
圧迫される事になります。もし、彼が武田側に寝返っていれば・・・。
武田が勝つと思う人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。
石高だけみても織田400万石に対して武田120万石、
家康の40万石がついたとしても160万石、最終的には必ず織田が勝ちます。
そうなった時、裏切り者の家康を信長が許すでしょうか、
彼の性格からして絶対に許しません。
どんなに苦しくとも先を見越した家康の判断が吉とでたのです。
嫡子信康を切腹させた時もそうです、もし彼が私の感情に囚われ
信長の要求を突っぱねていたら、それを理由に武田に寝返っていたら
信長によって滅ぼされていたでしょう。文でこう書くのは簡単ですが、
家康にとってこれほどつらいことは生涯なかったでしょう。
自分の手で愛する息子と妻を殺す・・・。苦悩の決断だったのでしょう、
まだ幼かった頃の信康の顔が脳裏に浮かび涙を流す事も
あったでしょう、しかし家康は敢えてそれを行なった。
やむを得なかったとはいえ彼の生涯の痛恨事であった事は間違い有りません。
その後、信長が倒れ羽柴(豊臣)秀吉が旧織田領の殆どを掌握し
家康は織田信雄と同盟し秀吉と敵対、
小牧・長久手の戦いで勝利をおさめます。
この勝利は彼にとって大きな財産となります。
「あのいくさ上手の太閤殿下に勝った」という経歴は彼にとって
その後どれほど有利に働いたか分かりません。しかし彼はこの勝利に奢らず、
秀吉傘下の大名となっています。何故なら、このときの
秀吉と彼の勢力関係は往年の織田と武田の物と同じ、
いやそれ以上に差がついており、これ以上突っ張り続ければ
秀吉の物量の前に押しつぶされる事が明白だったからです。
秀吉の全国制覇は進みやがて小田原の北条氏が滅亡すると
秀吉は家康に関東移封を命じました。
長年の苦労の末、築き上げた領土を奪われ、
いくら石高が増えるとはいえ関東の片田舎に移されるという事は
やはり悔しい事だったでしょうが、家康はこれも受けます、
そうせねば秀吉はこれを口実に家康を潰したでしょう
織田信雄のように・・・。
関東に移った家康は新領土経営に力を入れます、
朝鮮出兵にも兵を出していません。
あの阿呆臭い戦争で力を割くのは彼にとって
馬鹿馬鹿しすぎる事だったのでしょう。
こうして力を蓄えた彼は秀吉の死後天下盗りに挑みます。
それはここまで巨大な力を得た家康にとっても危険な賭けでもありました、
滅亡か天下か・・・。この賭けを成功させる為に彼は準備を行ないました、
裏工作、書状攻勢、特に大きかったのは北政所と
その影響下にある大名群を味方に引き入れたことでしょう。
こうして事態は家康の筋書きどうり運び、彼は天下の主となったのです。
この様に見てみると家康の人生には結構、
破滅の危機が多かったという事がわかります。
私の意見では家康はこれらの危機に対して常に的確な判断を下して
それらを乗り越えた、つまり家康は幸運なのでは無く
幸運を自分の力で呼び入れた人なのだと思います。
次に家康の家来に関してですが彼等が優れていたのは確かです。
だから家康がぐうたらでも天下が取れたというのは間違いです。
こういう事を言うと怒られるかも知れませんが大工に例えれば家康は大工、
家臣達は大工道具なのです。どんなに道具が優れていても
使う大工の腕が悪ければどんな道具も宝の持ち腐れ
立派な家は建てられません。
しかもその道具は持ち主の技量が足りないと見るや逃げるのです、
当時の武士は主君を選んで仕えるのが当たり前、ダメな主君は
こちらから退転してやるというのが常識でしたし、
家康の所からも石川数正が出奔しています。
それでも主な家臣の離脱はそれ位だった事を考えると
やはり家臣達の家康に対する信頼は厚かったのでしょう。
そしてそれらの道具を揃え点検するのも大工の務めです。
井伊直正は小姓あがり(それまで井伊家は没落していた)、
本多正信は鷹匠あがり彼等以外にも家康が
自分の手で拾い育てた道具達は大勢います。
そして彼等の能力を見抜き適材適所に配置し使いこなす、
家康の才能はこれでありどんなに鋭いノミであろうと
どんなに切れるカンナであろうと
使用者がダメなら力を発揮できないのです、
徳川軍団がどんなに優れていようと家康あっての彼等だという事です。
次に家康の長寿で有りますが彼ほど当時健康に留意した人はいません。
彼は漢方を学んでおり自前で薬草園を持ち
彼自身が当時一流の医者だったのです。
彼は粗食を好み、趣味で体を動かしました、
茶の湯・連歌等には全く興味が無く鷹野
が好きで剣術、乗馬いずれも殿様芸の粋を遥かに超えて
いました。粗食と適度な運動が体に良いことは現代の常識ですが
彼はそれを四百年前に実行していたのです。
性生活面においても彼は慎重でした、
当時梅毒が西洋人を通じて日本に入ってきており、
大名達も多くこれに感染していたといいます。
この病気は遊女と接すると伝染るのですが家康は側室を多く作り
戦場にまで伴い遊女を呼ばなかったため梅毒に感染していません。
現代でも不特定多数の相手との性交渉を避けることが
性病予防の基本ですがこれまた家康は実行しています。
家康の長寿はこうした彼の日々の努力の賜物なのです。
次に家康は狡猾だったと言いますが
一流の戦国大名で狡猾で無かった人がいるでしょうか?
織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗・・・
皆、他人を騙し、裏を書き、裏切り、陥れその地位を築いてきたのです。
そのような悪徳が堂々と通用する世界、
そうしなければ生き残れなかった世界それが戦国時代なのです、
だから乱世は終焉させねばならなかったのです。
私は家康は彼等に比べればマシだったと思います、
彼の手も汚れている事には変わりは無い、
しかし白い手の王者など存在しないのです。
以上が私の反論です。ここからは私の私見を述べたいと思います。
家康の凄さは清濁併せ呑むその大度量でしょう。
世の中にはいろんな価値観のひとが居て
皆自分の正義の名の元に生きており自分とは価値観の違う相手、
違いすぎる相手を奸物、俗物、悪党と嫌悪し生きています、
しかしそれら異なった価値観を持つもの達を排除する事無く
包み込み包括して調和を保ってしまう巨大な存在、
これこそ上に立つ者の絶対条件であり
家康こそその様な人物だったと私は思います
なにやら抽象的な表現で美化しすぎかなとも思いますが
私の拙い筆ではこれが精一杯です。
ただ人々の家康観という物が狸親父という
差別的で不当な先入観に毒されすぎていると思うのです。
余談ですが、家康は日本よりも外国での評価が高いそうです。
家康は天下を統一し250年という世界史上例の無い平和な時代を築きました
この功績は決して小さくない、いや巨大すぎるものだと思います、
日本の歴史上の人物の中で日本最大の英雄として
一人だけ世界史に乗せるとしたら私は家康を選びたいと思います。
家康はもっと評価されるべきです、
私は家康は日本史上唯一「覇王」の称号の似合う男だと思います。
投稿本当にありがとうございました。
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