歴史小説6

明智日向守光秀殿からの投稿

「マムシの親子」第一章、「戦場の巡り合い」

濃尾平野に大雨が幾日も降り注いだ。
南から温帯低気圧が夏の終わりを告げにやってきたのだ。
やがて雨が通り過ぎたに後には、金の稲穂が見渡す限りに広がっていった。
田畑には元気のいいセミの声にかわって
クツワムシやコオロギの声が聞かれるようになり、
涼やかな秋の青空は遮るものもなく
日光が照りつけていた夏空の霹靂に変わって
農民達の仕事を優しく見守っていくだろう。
そう、農民にとってはこれからいろいろと忙しい季節が始まるのだから。
稲刈り、年貢の納入、そして―戦も。

1547年(天文16年)9月某日 P・M 9:00頃―
危急を知らせる早鐘が、稲葉山城下に騒然と鳴り響いていた。
そのけたたましい音色は否応なしに人々の心を高揚させる
不思議な力を備えていた。はやる気持ちを抑えきれないでいる兵士達が
続々と稲葉山城に入城していく。ある者は兵糧を運び込み、
またある者は武具の点検をしている。
城中の女達は中間、小者に混じって炊き出しに大忙しだ。
それらの人々のかもち出す汗くさい空気が城内に満ちていた。
そしてはやる気持ちを抑えきれないのは住民も同じだった。
稲葉山城下では家財道具を詰め込んだ大八車を引きながら
あわてて避難しようとする住民をたいまつを掲げた美濃兵士達が先導している。
もっとも、住民達には、はやる気持ち=「今度の戦で手柄を立ててやるぞ!」
という猛々しい気持ち、という図式は成立せず、むしろ、
はやる気持ち=恐怖心。「また戦で田畑が荒らされる。
早く家族と一緒に安全な場所へ逃げねば!」、
という図式が成り立つのだろう、
たいまつの明かりに照らし出されるどの顔も不安の色に色濃く染められていた。
「おい、こいつはいったい何の騒ぎなんだ?」
とりあえず着の身着のままで逃げ出してきたらしいフンドシ姿の男が
大荷物をしょっている商人風の男にたずねた。
「なんでも、また尾張の織田信秀様が攻め込んで来たらしいぜ。」
「またかよ?去年は六角勢の侵攻があったばかりだってえのに。」
おとこはウンザリとした口調で言う。
「ったくよー、毎年毎年戦ばっかりしやがって!
上のやつらも少しは庶民の気持ちを考えろってんだ。」
男は無数の篝火に影絵のように照らし出されている
稲葉山城をうそぶいて吐き捨てるようにつぶやいた。
そして、ここにももう一人、金華山の山裾から
稲葉山城を見上げている者がいた。その人影はしきりにあたりを警戒しながら
松明の群の向かう方角―住民の避難経路―とは
逆方向に走りだしていった・・・。
「帰蝶!帰蝶はどこじゃ?」
ここは稲葉山城本丸。その男は先ほどからその名を呼びながら
城中を落ち着かない様子で歩き回っていた。
六尺五寸(195p)の巨体を持つだけに、
男がのそのそと歩き回る様子は「クマのように」という形容が
おかしいくらいぴったり当てはまる。
「どうした高政?」
「あっ、これは父上」
高政と呼ばれた男を呼び止めたこの人物こそ、美濃守護代斉藤家当主であり、
「美濃のマムシ」と恐れられる斉藤道三(当時は利政)だった。
呼び止められた男は長井高政、後の斉藤義龍である。
「実は・・・先ほどから帰蝶の姿が見あたらないのです。
まもなく織田の軍勢が稲葉山城下に押し寄せてくると伝えたはずですが・・・。」
帰蝶とは後の濃姫のことだ。その言葉を聞いたとき、
道三の眉がぴくっと跳ね上がった。
「高政・・・お前まさかあの件について
何かお濃にしゃべったのではあるまいな?」
「あ?はあ・・・。」
高政は道三の様子の変化に気づくことなくそう答える。
「お前は斉藤家の次期当主だ。
しゃべっていいことと悪いことの区別はつくな?」
「それはもう・・・あっ!」
高政はようやく帰蝶の行き先に思い当たった。それは数日前のこと。
「高政、尾張の織田信長殿はたいそうなうつけと評判だそうじゃ。
どうじゃな?もし・・・わしが帰蝶をそのうつけ殿の嫁に出す・・・
と言ったら?」
稲葉山城の道三の居室、そこに三人の人物が座していた。
上座のほうにいるのは道三、
そして道三と向き合う形で高政と次男の喜兵次が座っていた。
「父上、それは早計かと存じます。」
ややあって、そう答えたのは高政ではなく次男の喜兵次だった。
「たしかに、我が斉藤家は隣国尾張の旗頭、
織田信秀の侵攻に悩まされております。
しかしだからと言って、うつけと評判の信長などに
大切な妹をくれてやってまで和睦いたすのはいかがかと存じます。
それに、織田家中では弟の勘十郎信行殿を当主に押す動きもある模様。
もし、信長と婚儀を結んだ後に彼が廃嫡などになってしまっては
全ては水の泡です。なにとぞ、この喜兵次の顔を立てて
この件はご再考のほどを。」
喜兵次は朗々とした口調でいっきにここまで言うと、深々と一礼した。
先を越された形の高政は不満げにちっ、っと舌を鳴らした。
「そういえば、また尾張国内に出馬の動きがあるそうです。
何でも、今年八月に初陣を飾ったうつけ殿も一緒とか・・・。」
高政は失点挽回をはかるべく、たったさっきもたらされた情報を報告した。
「存じておる。知者は八方に気を配れと申したのは他ならぬこのわしじゃぞ。」
道三はにべもなくそう答えた。
「ははっ!もう父上のお耳に入っておりましたか。」
高政はあわてて平伏した。これでは恥の上塗りだ。
「まあ、うつけ殿の手まで借りるようでは、
織田信秀もあせっている証拠ですな。
今回の侵攻はそうたいしたものではありますまい。」
狭い室内に高政の乾いた笑い声が響いた。
道三も顔に笑みを浮かべてはいるが、その目は明らかに笑ってはいなかった。
それどころかのろまな息子をとがめる、
鋭く突き刺すような光を放っていたように、高政には思えてならなかった。
「で?もうしたのか?」
道三のその声で高政は我に返った。恐ろしい顔をした道三が
すぐ目の前に立っている。その顔を間近に見つめてしまった高政は
思わずごくり、と唾を飲み込んだ。だが、
事実を隠し通すことは出来そうにない。やがて、
意を決した高政は、二、三度大きく深呼吸をした後―
おそらく高政の行動の意味が分からなかったのだろう―
けげんな顔をしている道三に向き直ると思い切って切り出した。
「はい・・・もうしました。」
高政自身も驚くほど小さな、弱々しい声だった。
その声が六尺五寸の巨体から発せ
られたとはとても信じられない、
まるで蚊の鳴くような小さな、か細い声だった。
次の瞬間、
「阿呆っ!」
高政の頭上に罵声の嵐が容赦なく降り注いだ。
「あれほど帰蝶にはもらすなと言うておいたに!このたわけが!
あやつの性格を考えてみよ、十中八、九信長を見に行く。
いや、場合によっては信長を殺す気かもしれん!」
「ええっ!?」
高政もことの重大さに気づいたのか今更ながら驚きの声を上げる。
「妹の性格もつかめずに、海千山千の家臣達をまとめられるものか!
もうよい!そちはこれより帰蝶を探しに行け!」
「し、しかし、私にはこの稲葉山城を守る責務が・・・」
「いいからはよういけっ!お前のようなのろまがいてはかえって迷惑じゃ!」
高政のセリフをみなまで言わせず、道三の鋭い罵声が響いた。
その罵声に追いやられるように高政はあわててその場をあとにした。
(やれやれ・・・・。)
その頼りなさそうな後ろ姿を見ながら、道三は憂鬱なため息をもらした。
高政の姿が見えなくなると、道三はくるりと
高政の去っていった方角に背を向け、城の格子窓から外の様子をうかがう。
その様子は先ほど高政を怒鳴りつけた時とは一変していた。
その足取りは重く、くたびれた背中はまるで枯れた老人のようだった。
格子窓からは高政が使用人に指図している姿が見える。
その様子を見ながら道三は心の中でつぶやいた。
(高政・・・しっかりせいよ。
このわしが半生を費やしてここまで大きくした斉藤を、
この先盛り立ててゆくのはお前なのだからな・・・・・。)
その時、当の高政は使用人が引いてきた馬に飛び乗って駆け出すや否や―
ごすっ!鈍い音と共に馬から無様に転げ落ちる。
あまりにあわてていたためか、単なる前方不注意か、
城門の欄干―しかも角―に頭をぶつけたのだ。さらに、
彼の不幸はそれだけにとどまらなかった。なんと、
高政の足が鞍の鐙に引っかかってしまったのだ。馬の方は
主人が落馬したことに気づかずそのまま走っていく。
そのため高政はズルズルと引きずられた格好のまま城門を出ていった。
使用人が慌ててそのあとを追って行く。
(・・・・・ほんっとーにやれやれだな・・・・・。)
高政の無様な退場の様子も見ていた道三は、
次第に遠ざかって行く高政の悲鳴を聞きながら先ほどよりもさらに大きく、
憂鬱なため息をもらすのだった。
そのころ、城を抜け出した帰蝶は加納市郊外の草むらに一人身を隠していた。
人の背丈ほどの高さのある草むらは絶好の隠れ家だった。
(尾張の織田信長・・・どんな人物か見極めてやる!)
その決意を秘め、あさっての方角に向かって
ぐぐっ、と拳を握り締めたその時、
帰蝶の顔前をざあっ!と強風が走り過ぎ、
草むらを波立たせた。
風の勢いに思わず目をつぶった帰蝶が再び目を開けたとき、
目の前に一人の馬にまたがった男が立っていた。
(見つかった!?)
帰蝶は反射的に草むらに身を伏せたが、男はあさっての方を向いたまま、
誰かを待っているようだった。
危険がないことを悟った帰蝶はおそうおそる顔をあげ、
再び男を見る。
精悍な体、猛禽類を思わせる鋭いまなざし、
全身から発するすさまじいプレッシャー・・・。
どれも今まで帰蝶が見てきたどんな男にもないものだった。いや―
(いいえ、違うわ。)
帰蝶は改めて思い直した。以前、確かに、
この男と似たものを持っている人物に会っていることを思い出したのだ。
(似ている・・・父上と・・・明智十兵衛殿に!)
そう、父、斉藤道三もこの男ほどではないにせよ、
強い威圧感の持ち主であったし、
イトコの明智十兵衛光秀もやはり鋭さには欠けるが、
この男と同じような目をしていた。
(この人は・・・一体?)
そのとき、誰かの名を呼ぶ声と共に蹄の音が迫ってきた。
再び草むらに身を隠す帰蝶。
その声は、蹄の音が近づくにつれ、
やがてハッキリと聞き取れるようになっていった。
「若ーっ!信長様ーっ!」
その名を聞いたとたん、帰蝶の体中に稲妻のような衝撃が走り抜けた。
(ええっ!この人が・・・あの、尾張のうつけ殿!?)
聞き間違えではないか?そう思ってもう一度よく耳をすましてみる。
だが、声の主は確かに信長の名を呼んでいた。さらに、
「爺、遅いぞ!」
信長と呼ばれた男が声の主に向かって叫んだ。遠くまでよく響く、
カン高い声だった。
「若、お一人でこのような遠くに物見に出られては危のうございます。
この平手政秀、守り役として、若にもしものことがあれば、
殿に死んでお詫びをせねばなりません。」
平手と呼ばれた初老の男は馬から下りながら言った。
その名を聞いたとき、帰蝶の心に中に、
あるハッキリとした確信が生まれた。
(平手政秀・・・織田家二番家老にして信長の守り役・・・
それじゃあこの人はやはり・・・。)
その時、帰蝶の足下でパリッ、と乾いた音が鳴った。
あまりに動揺したためか、不覚にも
足下の枯れ枝を踏みつけてしまったのだ。
「誰かいるのか!」
その音を聞きとがめた平手政秀がこちらにやってくる。
だが、この状況で慌てて逃げ出せば
間違いなく敵と見なされて斬られるだろう。
(ええい、ままよ!)
半ばヤケになった帰蝶はその場に立ち上がった。
正面をキッ、とにらみつ据えた目線が
信長の視線と交わり宙で火花を散らす。帰蝶は斬りつけるような
信長の視線にぶつかっても負けじと彼をにらみ返していた。
「あなたは・・・帰蝶姫様!?」
さしもの平手政秀も彼女の出現には驚いたらしい。
外交交渉で稲葉山城を訪れた際何度か彼女を目にしているので
見間違えるはずがない。並の男を寄せ付けない凛とした気品と
勝ち気な性格が印象に残っている。
「なぜ・・・あなたがここに・・・?」
わけがわからずひたすら混乱する政秀にかまわず、
信長と帰蝶の目線はかみ合ったままだった。
両名ともぴりっ、と張りつめた空気を挟んで
にらみ合ったまま一言も発しない。
「おお、そうだ。信長様!
美濃の姫君を生け捕りに出来れば大戦果ですぞ!
人質として尾張につれて帰りましょう!」
ようやく我に返ったらしい政秀の声が、張りつめた緊張感を破った。
だが、信長は彼の方を見ようともせずに、
「爺、『美濃のマムシ』は人質をとったくらいで
どうこうできるようなヤワな男か?」
と、さめた口調で投げやり気味に言った。
「しかし・・・・。」
政秀はなおも何事か言おうとしていたが、
振り返った信長の鋭い視線に射すくめられたのか、
そのまま押し黙った。次に信長は帰蝶に顔を向き直すと、
「マムシの娘か・・・おい、『濃姫』」
とぶっきらぼうに帰蝶を呼んだ。
レディーに対する礼儀もクソもない信長の態度に思わず
ムッ、とした帰蝶は信長に言い返す。
「私には帰蝶というれっきとした名前があります。
勝手に低俗なあだ名で呼ぶのはよして下さい。」
「ムキになるな。美濃の娘だから『濃姫』の方が呼びやすくてよかろう?」
彼女など眼中にない、と言わんばかりの信長の受け答えに
帰蝶はますますいきり立った。
「あなたなんかに親からいただいた大切な名前をけなす―
まして、勝手に変える権利などないでしょう?」
「いや、あるかもしれんぞ?お前にその気があるのなら―の話だがな。」
「えっ・・・・・?」
一瞬、帰蝶は信長の言葉の意味をはかりかねてとまどった。
信長はかまわず言葉をつなぐ。
「我が尾張の織田は東に今川、北に斉藤と両面作戦を強いられている。
また、そなたの父上も美濃の豪族達の信頼を得られず
内心気苦労が絶えぬであろう。そなたの心がけ次第によっては
その状況を打開し、両国にとって大きな利益をもたらせる。」
信長が何を言いたいのか気づいた帰蝶は思わずハッ、と身を固くする。
(なっ・・・!まさか私がこのうつけ殿に・・・嫁ぐと・・・・・?)
信長は狼狽している帰蝶の様子を見て
かすかに口元をゆるめた―ような気がした―だが
すぐにいつもの険しい表情に戻ると声高に宣言した。
「この国は俺がいつか必ずもらい受ける。その時をまっていよ!」
「・・・・・」
帰蝶は無言だった。いや、
なにも言えなかったと言った方が正しいかもしれない。
こんなことを敵国の姫の前で平然と言ってのける
信長の強烈な第一印象が彼女から思考能力を奪っていたのだ。
「いくぞ、爺!」
「ああっ、お待ち下され若っ!」
あわてる政秀を後目に信長はそのまま馬を返すと来たときと同じく
風のように去っていった。帰蝶はやはりその後ろ姿を
呆然と見つめていたが、その心の中には妙なすがすがしさが残った。
そよそよと吹き行く春風とも違う、まるで、
初夏を告げるの風のような激しく、それでいてすがすがしい気持ちが。
「帰蝶ーっ!」
なぜか全身包帯でぐるぐる巻きの高政が
帰蝶を発見したのはこのときだった。だが、
兄の声さえも帰蝶には届いていないらしく、
いつまでも放心したまま、信長の去っていった方向を見つめていた。
ほのかに朱を帯びた帰蝶の顔には、冷たい秋の夜風が心地よかった。





投稿本当にありがとうございました。

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