「布石」前編

濱野意忠殿からの投稿

慶長五年九月十五日 早朝

関ヶ原一帯は濃い霧に包まれていた。
一刻程前には石田三成率いる西軍が、半刻程前には徳川家康率いる東軍が
布陣を終えて無言の対峙を続けている。
双方合わせて十五万もの軍勢が犇いているにも関わらず、
時折聞こえる軍馬の嘶きの他には鳥の声も虫の声もない。
それは、まるでこれから始まる戦の重要性を表しているかの様な
重い不気味さに間違いなかった。
誰もが不安を、或いは苛立ちを感じながらも押し黙っているのが分かった。

桃配山に置かれた家康の本陣では人払いがされ
家康と井伊直政の二人の姿だけがあった。
「いつもとは別の意味で大儀じゃのう?」
「なにを仰せられます。至極光栄に存じます。」
そう、直政は徳川家にあって常に先陣を務め「井伊の赤備え」と
敵味方から称される存在であったが、今回は「打倒・石田三成」の
豊臣武断派が中心となって行われる戦故に先陣は福島正則に
託されていた。
先陣はその過酷で勇猛な戦い振りだけが重要なのではない。
静かな水面に一石を投じてできる波紋の様に
戦全体に影響を及ぼすために、どの部隊に襲い掛かるのか
どう攻め始めるのか、意外にも難しい任務なのである。
それだけに他人に、しかも徳川家の者ではない人間に
務めさせるというのは全軍の士気に関わる問題故に
総指揮官でもないはずの直政本人は出過ぎた心配と言われようとも
心配で仕方がなかった。
それだけではない。自分の娘婿であり家康の四男・忠吉(四郎)の
初陣の補佐役にも任命されているのである。
口では謙遜の態度を取ったものの、他人の心配をすることは
無理難題を自分で解決することよりも難しかった。
家康の心配も直政の謙遜も当然のことではあったが、
二人はあえてそう言い、そう答えた。
腹の内は分かり合っている。
二人同時に苦笑しながらも家康はさらに続けた。
「他でもない。そちは四郎をどう思う?」
「四天王」と呼ばれる徳川家譜代の中にあって
最も新参の直政が家康に重用されてきたのは
勇猛果敢な戦い振りだけではない。
戦歴に驕らず、無駄口を利かず、槍を持たぬ時でも
己を捨てて主君のために真摯な態度を心掛けてきた賜物なのである。
戦時は鬼に、平時は賢者に・・・。
直政はもう一度、心の中で自分の役割を確認した上で返答した。
「恐れながら申し上げます。忠吉殿は殿の御子の中にあって
最も殿の御血を強く引き継がれておられると存じます。」
それはお世辞でも自分の娘婿に対する贔屓目でもなかった。
二十一歳にして初陣を迎える遅咲きの若侍・忠吉には
その戦振りこそ未だ見てはいないものの、
直政には己の肌で感じるものがあった。
無論、戦場での素質だけではない。
普段からの立ち居振る舞いや考え方を通して見ても
家康に匹敵する深慮遠謀ができるのは忠吉をおいて他はなく、
二人の兄・秀康、秀忠には決して真似のできない
青竹の様なしなやかさと強さと気高さを兼ね備えている。
直政はそれ以上口に出さなかったものの、確信を持って答えたのだった。
家康は直政の言葉に「我が意を得たり」とばかりに深く頷くと、
満面に自信を漲らせて姿勢を正す。
少ない言葉の遣り取りの中、こうして主君・家康と心の底から
理解しあえる関係が直政には何より嬉しかった。
しかし、主従の幸福な時間は短い。ここは紛れもなく戦場なのだ。
すぐに真剣な顔に戻った二人は急いで次の行動に
移らねばならなかった。
家康は手招きをすると、二人だけにも関わらず耳打ちを始めた。
二三度小さく頷いた直政は、素早く離れると
深々と一礼をして家康の本陣を後にした。
家康は遠のいていく蹄の音を聞きながら満足そうに言った。
「頼んだぞ。」

「布石」前編・完





投稿本当にありがとうございました。

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