泣いた赤鬼

濱野意忠殿からの投稿

夜半まで降り続いていた雨は止んだものの、設楽ヶ原は
膝まで潜ってしまう様な泥濘と見通しの利かない
朝もやが深く立ち込めていた。
まるで武田の部隊の行く手を阻む様に・・・。
山県昌景は、僅かにその輪郭が判る織田・徳川連合軍の
陣営を見つめながら、ふと昔のことを思い出していた。
ある晩、信玄の部屋に呼ばれた若い昌景は、
信玄の口から思わぬことを耳にしたのである。
四方を険しい山々に囲まれた甲斐の国は、それ自体が
天然の要塞の形を呈してはいたが、一度敵の侵入を許せば
逃げ道すらない地形であること。
痩せた大地からもたらされる恵みの少なさと、長雨が続けば
山からの雨水が生活の糧を押し流してしまうこと。
血肉を分けた親兄弟とて信じられない時代に、
この様な国で生き残っていかなければならない不幸などなど。
厳しいその顔からは想像もつかない弱さを知ったのだった。
口さえ開けない昌景は、どうすることもできなかったが
信玄は明るい表情に戻って言った。
「のう、昌景。儂はそんな国に生きる領民の暮らしを少しでも
良くしたいのじゃ。危険があれば打って出てそれを潰し、
その土地を手に入れて分け与える。どこであろうとここより
ましじゃとは思わんか? 国力が増せば、誰も儂等の国に
手を出さなくなる。そうすれば戦も自ずとなくなり、静かな
暮らしができると儂は思っている。」
昌景はその目に魅入られた様に動けなかった。
何か暖かい春の日差しを浴びている様な、いつまでも
この場所に居続けたい爽やかな気分だった。
その信玄が逝って、勝頼の代になると信玄の理想は脆くも
崩れていた。
「領民ありき」の戦は影を潜め、ただ闇雲に勢力拡大や
勝頼自身の武名の為の不毛な戦に成り下がっていったのだ。
昌景は嘆いた。
信玄と勝頼では器が違いすぎた。それは武力ではない。
領民を思う心が違うのだ。
今、目の前にしているこの土地での戦に何の意味があるのか?
鳶ノ巣砦を攻め落とすことも出来ずに織田・徳川が兵を出して
形勢が逆転したにも関わらず、武田の武名だけで通用する
とでも思っているのか?
若き猪武者は敗北の先に何が待っているのか知らない。
領民が何を望んでいるのかも知らないのである。
天を見上げた昌景の元へ伝令が走り寄ってきた。
「申し上げます。鳶ノ巣砦の部隊が徳川の軍勢に急襲されました。」
昌景は愕然とした。
「退くこともできなくなったか・・・。」
もう一度前方を見つめた昌景の背中に、赤備えの兵士達の視線が
突き刺さっていた。
自らが鍛え上げた兵(つわもの)達だ。脅えた者は一人もいない。
それが逆に、昌景にとっては苦痛だった。
この悪条件の向こうに何が待っているか、昌景には判っていた。
昌景の目に涙が浮かんだ。
己の命が尽きることが悲しいのではない。
この兵士達や国の領民のことが不憫でならないのだ。
だが、もうここに至っては選択の余地は費えたのだった。
昌景はぐいと涙を拭うと、兵士達に向かって号令をかけた。
「赤鬼の最期、とくと見せてやれい ! かかれー !!」
「おおー !!!」
昌景達は朝もやの中に消えて行く。
時に、天正三年五月二十一日であった。

                           完





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