歴史小説11

明智日向守光秀殿からの投稿

「マムシの親子」番外編「稲葉山城馬番日記」

天文16年9月某日、天気、雨のち晴れ 風向き南南東 風速、湿度・・・
この時代にそんなモノはない。
私はいつものように厩の横にある番所で目を覚ました。
今日はあいにくの雨だった。
まぁ、私は馬番なのだから休暇の日以外はここに泊まり込んでいるし、
お偉方のお供をしなければならないときは
例え台風の暴風圏の真っ只中にいようと付き添わなければならない。
だから今日もいつものように自分の勤めを果たせばいいだけなのだ。
天候はあまり関係が無いのかもしれない。
だが、開け放たれた窓から見える黒々と空を覆う雨雲を目にしていると
しだいに心の中に憂鬱な気分がわだかまっていくのを感じる。
外に出たくない、今日は勤めを休みたいという思いが
胸のうちから黒々とこみ上げてくる。まるであの雨雲のように。
が、私は馬の飼育の腕を買われてここに雇ってもらっているのだ。
特に、軍馬は気性も荒く、戦でしょっちゅうケガをして帰ってくる。
熟練者が世話をしなければいざという時、役に立たない。
なぁに、一度起きあがってしまいさえすれば後は簡単だ。
私はそう自分に言い聞かせると腹に力をこめ、えいっ、
と威勢のいい掛け声を掛けて起きあがった。
起きあがってみてからふと下を見ると、
何故か私の股間についている大事なモノも威勢よく起きあがっていた。
土砂降りの雨が降りしきる中を重い牧草の束を抱えたまま
なんとか厩までたどりついた私は、待くたびれたよ、
と目で訴えている馬たちに朝の牧草を与た。
心なしか馬たちも機嫌が優れないらしく、
しきりに厩の中を行ったり来たりして落ち着きがなかった。
私は一頭一頭の名前を呼んでその背中を優しくさすってやる。
この稲葉山城で馬番を勤めて早10年、その間にもいろいろなことがあった。
特に、今の稲葉山城主齋藤利政(道三)様はいろいろと噂のある御方だ。
この仕事をしていると、上の方々の噂話も時折耳に入ってくる。
なんでも、利政様はもとは京都妙覚寺の僧で、還俗して油屋の養子となり、
行商を続けるうちに妙覚寺時代の学友だった日雲殿とか申す御坊の紹介で
当時の小守護代だった長井長弘様にお仕えすることになったそうだ。
その後、利政様は長井家の家老の家である西村家の名跡を継ぎ、
西村勘九郎と名乗られたそうだ。利政様は当時の美濃の守護、
土岐政頼様の弟君であり現在の美濃守護である土岐頼芸様に取り入って、
しだいに頼芸様の寵愛を得られたそうだ。
そして大永七年(1527年)のある日、
利政殿は頼芸様をそそのかして
元から仲の悪かった兄政頼様を討たせとうとなされた。
突然の来襲に驚かれた政頼様は取るものもとりあえず、
越前に逃れられたそうだ。
さらに、享禄三年(1530年)正月、
稲葉山城にいた長井長弘夫妻が
突然流行り病でお亡くなりになってしまわれた。
その直後、利政様は素早く土岐頼芸様を美濃の当主におたてになり、
自らはその功労の第一人者として権勢を振るわれた。
さらにその三年後の天文二年(1533年)、長井一族の最長老、
長井利隆様がお亡くなりになられ、それを期に利政殿は長井の名跡を継ぎ、
長井新九郎規秀と名乗られたそうだ。
世の人々はそのあまりの手際の良さに利政様が長井一族を暗殺し、
その名跡を乗っ取ったと噂しあったそうだ。
天文3年(1534年)には自らおたてになった土岐頼芸様を、
長良川河畔枝広にあったお屋敷が洪水で流されたのを期に
遊芸を好み酒におぼれたという理由で大桑の山城に半ば監禁してしまわれた。
そして天文七年、守護代齋藤利良様がお亡くなりになられ、
利政様は頼芸殿に頼んで齋藤氏の名跡も継がせてもらい、
齋藤左近大夫利政と名乗られ、今に至るそうだ。その後も前の守護、
土岐政頼様が越前朝倉の兵を後ろ盾に利政様に服さぬ豪族達をあおったり、
南からは尾張の旗頭となられた織田弾正忠信秀殿の侵攻がたびたびあったりと
私にとっても利政様にとっても気の休まらぬ日々が続いたが、今はどうにか、
利政様も私もこうして無事に生きている。
そういえば今から三年ほど前のちょうど今の季節にも
織田、朝倉勢の侵攻があった。あのときは利政様の活躍でなんとか
この連合軍を撃退できたが、
今年も信秀殿がわが国に乱入する期をうかがっているらしい。
さて、今年の秋はどうなることやら・・・・・
少し、長話が過ぎたのだろうか?日はとっくの昔に山陰に隠れてしまい、
いつのまにか雨もやんで空には満天の星空が広がっていた。
その心洗われるような光景に思わず目を奪われていると、
城下の方からけたたましい早鐘の音が響いてきた。
私は何事かとあわてて偶然近くを通りかかった草履取りの孫八に問いただす。
「おい、城下が騒がしいが何かあったのか?」
「ああ、また尾張の織田信秀が木曽川を越えてきたらしい。
美濃乱入の噂は前から流れていたが、
ついに来るべきものがきたって感じだな。」
やはりそうか!と彼の返事を聞いて私はパシッ!と
右のこぶしを左の手のひらに叩きつけた。左の手のひらにじん、
と鈍い痛が波紋のように広がって―
「痛てぇっ!」
・・・・・カッコつけて少々強く叩きすぎてしまった。
左の手のひらがいつもの倍ほどの大きさに腫れ上がっている。
が、そんなことを気にしている場合ではない、
城下には私の家内と子供もいるのだ。
何かあったときは近所の「村の城」にかくまってもらえるよう
取り計らってはいるが、もちろんだからと言って安心なわけがない。
早く組頭に事情を告げて早退しなくては!が、その時―
「馬じゃ、馬を曳け!」
城の方から何事か叫びながら斜面を転がるように下ってくる大柄な男が
私の視界に飛びこんできた。あれはたしか長井高政様、利政様のお世継ぎだ。
ちっ、こんな時に!と私は内心歯噛みしていたがそれをおく面にも出さず、
にこやかな営業スマイル
(この時代でもそうゆうニュアンスの表現があったのである・・・・・
ええい、私が言うのだからあったのだ!たぶん・・・。)を
浮かべながらにこやかに応対する。
「これはこれは若様。こんな時間になんのご用件ですか?」
「挨拶はいい、早く馬を曳いてくれ!帰蝶・・・帰蝶の一大事なのじゃ!」
私のパーフェクトな態度を全く無視し、もはや悲鳴に近い声でそう叫ぶ。
むかっ。ただでさえいらだっている私は
高政様のぞんざいな態度にますます腹を立てるが、
もちろんそれを決して顔には出さず―
―でかいなりしやがって気の小せぇ野郎だこの妹バカが。
妹のこととなると毎回毎回すぐ癇癪起こしやがって。
今度てめーの乗る馬の蔵に馬糞のワックスをたっぷりきかせてやる―
―と、心の中で文句をたれ―もとい、しごくまっとうな意見を述べる。
それはともかく、この大柄な高政様がこれ以上癇癪を起こして
暴れ出したりしたら私にはとても止められない。
私は急いで厩に取って返しその中でも最も俊足を誇る一頭の手綱を引いて
再び高政様の前に進み出た。
「さあ、お急ぎください!」
私はあくまで忠実な一家臣の仮面をかぶったまま手綱を高政様に手渡し―と、
ここで私の脳裏にある悪魔的な考えが浮かんだ。
―日頃なにかとこの私をこき使っているこの若殿に
ひょっとしたら復讐ができるかもしれない―
そんな私のたくらみなど露ほども知らず、
高政様は私の手から手綱をひったくるように取って馬にまたがると、
「ハイッ!」
馬にムチを入れ、矢のように駆け出して行った。
―そろそろ頃合だな―
私はにやり、と思わず緩む口元をひきしめると
今まさに城門から駆け出ようとする高政様の背中に向かって叫ぶ
「高政様!前!」
えっ?というけげんな表情で、高政様は私の予想どうりのタイミングで
こちらを振り返り―
ごすっ!―次の瞬間、鈍い音と共に馬から転げ落ちる。
私の予想どうり、大柄な高政様は城門の欄干をくぐれず、
後頭部を痛打したのだ。
―ざまあみやがれ、いい気味だ―
私は思わずガッツポーズでもしたくなる気持ちを抑え、
忠義面のまま高政様に駆け寄る。と、
そのとき私自身も予想しなかった出来事が起こった。
「うわあっ!助けてくれぇ!」
なんと、高政様が落馬したことにも気がつかない馬が
高政様をあぶみに引っ掛けたまま駆け出したのだ!
ズルズルと馬に引きずられたまま城門を飛び出して行く馬と高政様。
「高政様ーっ!お待ちをーっ!」
今度は私も冗談どころではなく叫んでいた。
欄干に頭をぶつけた出来事だけの場合、私には他意は全く無い。
私はあのとき「高政様!そのままでは城門に頭をぶつけてしまいますよ!」と
叫ぼうとしたのだ、と言い逃れができるし、
頑丈な高政様のことだから城門の欄干に頭をぶつけたくらいじゃあ
死にはしなだろう。が、もし万が一、
この事故で齋藤家の大事な嫡男を死なせたとあっては
私の責任は逃れられない!
―死刑だっ!ぜええええええったいに死刑だぁっ!―
私はほとんど涙目になりながらも必死に馬を追いつづけた。
そのかいあって、
三町(約300メートル)ほど走った所で
なんとか馬を止めることができたが、高政様は重傷を負い、
私は後に業務上過失を問われて長年慣れ親しんだ馬番を解雇されることに―
―教訓、人を呪わば穴二つ―By馬番 圭輔

どうも!今日は学校からの送信ですが、
一日がかりで←(テスト期間中に何やってるんだろ、私は)
こんな番外編を書いてみました。良かったらこの作品の批評なども!





投稿本当にありがとうございました。

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