通貨2
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水野白楓

(十兵衛さんに触発されてみました)
我々が子供のころは日本最古の貨幣は「和銅開称」だと言われてきました。
しかし、近年天武朝ころの発行とされる「富本銭」が見つかったことによって
歴史の記述が大きく変わりました。
奈良時代の貨幣は余り普及していなかったというのが、
今までよく言われていましたが、最近の研究では地方でも
そこそこ使われていたものの如何せん当時の日本の経済規模が
通貨を必要とするレベルに至っていなかったというのが実情のようです。
その後、中国から唐や宋の銭が輸入されてまいります。ところが、
中国では人口や経済規模に対して銅銭が圧倒的に少なかった上、
儒教の「勧農」精神から金や銀を通貨に用いる事に
否定的な考えが強かったため、銅銭の輸出は禁止され、
いろんなもっともらしい理由をつけた仏教弾圧命令も
実は仏像や仏具を溶かして銅銭を作る目的もあったといわれています。
そんな訳で中国では「飛銭」と呼ばれる為替手形による取引が
大都市間で行われ、それが宋の時代には官が手数料目当てで
発行するものへと発展し、元のころには世界初の紙幣へと
変化していくわけです。さて、日本には銅銭は倭寇や密輸等による
輸入こそされましたが、数は少なく、
かつ明の中期に入ると明の国内では豊富な銀が紙幣とともに
貨幣として使われ、重くてかさばる銅銭発行そのものが中止になります。
(十兵衛さんの説明は少し違うようで、永楽通宝は
明国内の流通目的で作られたものです)
そこで日本国内では銅山の開発が進んだことを利用して
自分たちの手で中国のものと同じ銅銭を作ろう(それって、贋金じゃん!)
という動きが出てきました。こうした銭を「私鋳銭」といい、
本物同様に原則では使えました…ですが、
当時の日本では貨幣作りのノウハウが既に断絶して久しく、
あまり上質な銭が作れません、そこで人々はこうした銅銭を
良質の銭よりも安い価値しか認めず、悪質な銭を他者からは受け取らず、
もし持ってしまったらなるべく高値で他者に押し付けて、
悪質な銭を保有しないように勤めました。これを「撰銭」といいます。
とくに悪質な銭の押し付け先として庶民から狙われたのは、
戦国大名などの領主に治める税金関係であり、逆に言えば
大名の財政に関わる大事につながりかねない事だったため、
永禄年間頃より撰銭を禁止する法令が大名に出されました。
特に織田信長は厳罰をもって望んだのですが、これが大失敗。
小田政権といえども未だ自力で全国統一通貨を出すだけの経済力も
政治力も欠けていたため、撰銭に比較的寛容な政策を採っていた
北条氏などの東国の各地に貨幣が流出し京都やその周辺では
貨幣が極端に不足し始めました。
そこで、なんと米による物々交換や明にならって銀による代用貨幣で
取引を進める習慣が天正〜寛永の約半世紀間に限って
行われるようになりました。
そうした現象は江戸幕府が寛永通宝を出した事で一応は
終焉を迎えますが、
その間に上方では銀の取引が定着し、地方では
米による物々交換に回帰してしまったため、
江戸は金で大坂は銀という貨幣の二元化や貫高制による金納税制から
石高制による米納税制への逆行など、
日本の近世の経済・財政を複雑にさせた諸制度が長く続く事になるのです。





投稿本当にありがとうございました。

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