家元制度についての雑感
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斯波義麿

前半

 江戸時代の日本は、世界に先駆けてさまざまな
今日的文明の基礎をなす制度、システムを商習慣や
文化事業の中に築いてきました。
 大坂(今は大阪)の堂島の米相場会所の開設(1730)、
これは、”帳合取引”と呼ばれ、現物をまったくともなわない
純然たる先物取引の嚆矢として世界商業史に刻まれています。
また、識字率の普及は、世界最高水準を誇っていました。
木版印刷による”読み本”の出現は、ヨーロッパに先駆けた、
大衆出版文化の到来を意味しました。
 こうした世界水準の最高レベルや”世界初の称号”を
冠せられる江戸の文化事業の中に囲碁、
将棋の家元制度の確立があります。
はじまりを太閤秀吉時代の碁打ち衆(本因坊算砂)への
二十石二十人扶持の支給にあるとする
この”専門棋士”の誕生は、徳川家康公が1612年に囲碁、
将棋の強者八名に扶持を与え、それぞれ碁打ち衆、
将棋衆として召抱えたことによって制度的に確立しました。
(詳しくは、Wikipediaの「碁所」、「御城碁」等を参照ください。)
囲碁の家元というのは、こうして生まれた
「本因坊家」「井上家」「安井家」「林家」の四家を指します。
 四家の中の筆頭は、「本因坊家」であり、
幕末にいたるまでほぼ”碁所”すなわち
碁打ち衆の”長官”の地位を独占したため、
社会的にも”名人”の代名詞のような認識で
受け止められてまいりました。厳密には”碁所”=碁打ち衆の
長官と九段位=”名人”は同一ではないのですが、
それは、よほどの例外なので普通は、
碁所=名人=九段位といって間違いありません。
今日ではその名跡は囲碁のプロ組織、
日本棋院の所有となっています。有名な囲碁のタイトル戦
「本因坊戦」はその名跡をめぐって、プロ碁打ちが、
しのぎを競うという趣旨の一年任期の選手権戦です。
 現代でこそチェスの世界選手権戦や
各国のプロ碁打ちのトーナメント戦は、当然のように
行われておりますが、約四百年前に専門家集団による
選手権戦、(碁所=名人位=長官位)争覇をめぐる
家元四家による真剣勝負が幕府の庇護のもと、
制度化されていた事は、世界文化史上の驚くべき
特筆大事と申しても過言ではないでしょう。これは、
囲碁を愛した徳川家康公の趣味をそのまま
歴代将軍家が踏襲した結果であり、”真剣勝負”の結果を
将軍家の御覧に上げる毎年の”御城碁”の日とは、
家康公の命日である11月17日に他なりません。
この日は、家元・碁打ちにとって、はれの将軍お目見えの
特別の名誉の日であり、この儀式が完了するまで、中座したり、
途中退席したりすることなどありえません。
「碁打ちは親の死に目に会えない」の諺は、
この故事に基づくものです。
 世界文化史上における意義を称え、囲碁を愛した家康公は、
2004年に第一回囲碁殿堂入りに選出されました。

後半

 先ほど江戸時代に確立された家元制度のうち、
碁打ち衆すなわち囲碁四家の成立事情に関して
述べさせていただきましたが、世に家元と名のつく職能家系の
多きこと、華道、茶道、礼式、能、狂言、武術等々無知な私が
何を”雑感”として述べられましょうか。ただ、
自分の趣味である囲碁に関してのみ、少しは、
ご報告らしき何かを申せると考えているしだいです。
 にもかかわらず何ゆえ家元制度についてなどと
えらそうな表題を採用したのか、それは、
私が愛してやまない囲碁に関して”家元”という言葉が
特別なキーワードであると考える理由があり、
歴史に関する議論の中で囲碁を論じようとすれば
家元制度の性格、意義、存在理由等を考察せずして
正しい結論を導くことはできないと考えたからであります。
私の囲碁論において家元制度はそれほど重要な位置を
占めております。
 ゆえにこの後半においての”家元論”とは
囲碁を論ずるためのツール、補助線的な意味合いで
語られる事を先におことわり申し上げ、
議論を進めたいと存じます。
 そもそも何ゆえの”歴史コーナー”における囲碁なのか、
歴史ファンにとって囲碁など関係ないではないか、
と指摘されれば非常につらい面がある事を
正直に申し上げて話を進めたいと思います。
これに関する私の釈明は、私は、囲碁に関する或る救いを
歴史に求めざるをえなかった、ゆえに、私の囲碁論は、
そのまま、何らかの意味での広義の”歴史論”に
相当するわけであり、”歴史論”ならばこのコーナーに
投稿しても許されるであろうと考えたしだいです。しかし、もう、
そうとう前置きがながくなりました。以下、本論でございます。
 80年代に「日中スーパー碁」に何度目かの敗北を喫した後、
日本囲碁界は、90年代後半からこの21世紀初頭の
数年間にかけてアジアのとりわけ韓国の若き天才たちに
こてんぱんに打ち負かされ、もはや、彼らは
日本の囲碁を学ぶ必要性を認めなくなったかの印象があります。
日本の囲碁ファンたちの反応も弱気で彼らのネット上の
議論をみれば韓国最強、日本二流という意見が大半のようです。
日本のプロ棋士たちも弱気な感想が多い。
 しかし、私の感想は、異なっています。私は、
今でも日本を世界最強の囲碁国家であると考えており、
その信念の拠り所が家元制度というしだいです。ところで、
GoogleのWikipediaで「家元」を検索してみてください。
他の分野の家元(華道や茶道、小笠原流のような礼式)が
今も健在であるのに対し、囲碁、将棋は
「家元が死滅した」と記されています。これが、
世間一般の常識であり、多分、日本の囲碁のプロ棋士たちも
そう考えているのでしょう。自分たちが”家元”そのものである、
いな、そうあるべきである、という自覚がない。これが、
”道場破り”すなわち、東アジアの中韓棋士たちに
看板をうばわれて後塵を拝することになった原因の
最たるものです。
 ここで私は、何故、徳川時代に確立された家元制度が
すばらしいか、その理由を語りたいと思います。まず、
わかりやすい数字から。囲碁に於ける
もっとも高い評価を受けている数人の碁打ち、本因坊道策、
丈和、秀策、道的、秀和、秀甫、秀栄(丈和以下すべて姓は
本因坊)といった天才たちは、皆、江戸時代に生を受け
(活躍が明治の棋士もあるが)家元の徒弟制度で
修行したという事実です。ところで右の七名の棋士を
上回る天才はプロ化した明治以降の近代碁界からは
出現していない。贔屓目にみてもかろうじて
互角の棋士が十数名といったところでしょうか。
選手層の厚さは、大正、昭和、平成を合計すれば、
江戸時代の家元四家の総延べ数の数十倍に値する院生、
准棋士、見習いを抱えておりながら、
数十分の一の江戸時代と同数もしくは、
倍ぐらいの天才しか生み出せなかった。この効率の悪さは何か。
否、江戸時代の家元四家の異常な効率のよさは何か、
これは、統計から導かれた結果なのですから誰も反論できない。
すべては、家元制度の一子相伝的な摩訶不思議な
密教の奥儀伝承の如き霊的交感がなされた結果としか
思えません。もっとも大切なものは、筆授できない
(言葉、演繹的論理を駆使しても伝えられない)、このことは、
司馬遼太郎氏が、「空海の風景」の中で
空海と最澄の密教の奥儀伝承にあたる姿勢の違いを
見事に描いておられるので是非ご一読いただきたい。
家元制度にはこの超心理学的なテレパシー的な
言葉によらない感化という神秘的側面があると私は、
推測します。
 私の好きな司馬氏の作品に「京の剣客」という短編があります。
ここに表現されている吉岡憲法の姿こそ
私が理想とする「家元」そのものです。家元は、
在野のプロフェッショナルに負けてはならない。
死に物狂いで修行した在野のプロ中のプロを
手もなく捻るのが「家元」であるからです。努力は、
天才に勝てない、その「天才性」を代々筆授や論理、
左脳的人間知によらず、帰納法的な直観的な
瞑想的な”霊感”のかたちで一子相伝させるのが
(これは、遺伝学的な親子である必要はありません
養子がむしろ普通です)家元、日本の家元文化であると私は、
信じます。古来、日本の文化はそのようにして、
師匠から弟子へと伝えられたのでした。
 かえりみて日本の近代碁界で最も家元徒弟制度に近かった
育成方法をとっておられたのは、木谷実先生でした。
木谷門下からは、競馬に例えれば、
サンデーサイレンスからダービー馬が何頭も誕生したように
多くのタイトルホールだーが生まれました。
これをみても家元徒弟制度の如何に優れた
教育方法かがわかります。
 日本のプロ碁打ちの方々は、自分たちが、
日本棋院という看板を背負った現代の囲碁の「家元」であり、
死に物狂いで武者修行したプロ中のプロである在野の
「宮本武蔵」を木っ端微塵に返り討ちする義務があると
自覚していただきたいものです。せっかく、
家康公が敷いてくれたその伝統のシステムを是非、
現代に蘇らせていただきたい。日本の文化の力を
結果で証明していただきたい、と深く切に祈るものです。
 長々とご静聴いただき真に有難うございます。





投稿本当にありがとうございました。