秀吉の遺言 (遺言しだいで”関が原合戦”は防げた)
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斯波義麿

もともと、1598年春、”醍醐の花見”を楽しんだぐらいですから、
秀吉に”死ぬ準備”があったとは思えません。
その覚悟もなく、彼らしい人間洞察、リアリズムのかけらもない、
甘い、”性善説”に立った”老人のたわごと”に終始した
遺言を残しました。この時、なぜ、太閤は、
自分(秀吉)と前田利家(年齢が近い)と
石田三成の三人が同時にこの世から消えた場合の
シミュレーションを考えなかったのでしょう。おそらく、
その余裕を彼に与えないほど”死の病”の苦痛は凄まじく、
絶え間のない拷問のような肉体的苦痛が、
太閤から一切の余裕、インスピレーション、
才気を奪ったのでしょう。彼が、健康であれば、
黒田如水軒親子や吉川広家の危険性
(その内在する豊臣政権=秀吉の代理たる石田三成への
不満は在鮮の陣中で顕在化していた)は考慮できたでしょう。
何より、秀頼の競争者が徳川家康以外考えられない事は、
自明の理でした。要するに、かれは、”法的”網で
諸侯を拘束出来る権限を持ちながら、
それを”成文化”させる能力、”法源”=天下人たる実行力を
死の床の中で喪失していたのでした。彼の頭が正常なら、
次のような遺言で豊臣家は、安泰でした。
一、(秀吉没後)、豊臣家の家政は前田利家、
利長親子に一任、その与力は石田三成と
浅野長政がつとむるべし
一、天下の仕置きは、五大老の合議による。ただし、
秀頼様名代として特に大老の筆頭に宇喜田秀家をさだむ。
秀家儀、官位を左大将、ついで左大臣に累進の事、
秀頼様十五歳にいたるまで関白をあいつとめるためなり。
また、秀家の与力、後見は石田三成、増田長盛、
毛利秀包がつとめるべし
一、五大老合議とは申せ、秀頼様十五歳まで、
宇喜田秀家の申し条をすべて秀頼様の申し条と心得るべし、
秀家には上方に十万石を加増すべし
一、小早川秀秋は沼田小早川家のみの相続とし、
越前五万石に減、転封。その九州の旧領地は
毛利秀包に賜るべし、毛利秀包は竹原、小早川家を相続し、
小早川秀包と名乗るべし。また、隆景の如く
毛利家の”大人”=家老の役目をもあいつとめるべし
一、関東は徳川家康、奥羽は上杉景勝が秀頼様十五歳まで
宰領すべし、佐竹義宣儀、奥羽、関八州の中ほどにありて
家康、景勝両名の与力たるべし、ただし、
特に関白直々の采配をうけるにあたっては、両人にはばからず。
一、伏見城は秀家、大坂城は前田親子が秀頼様十五歳まで
城代をあいつとめるべし。





投稿本当にありがとうございました。