衆道
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皆様も知っておられる方もいらっしゃると思いますが、
戦国武将が実は男を愛したというのは
結構有名な話ですね(そうなのか?)^^;
あの織田信長だって家臣の森蘭丸をできてしまったという事です。
でも、ちょっと意外なのは上杉謙信です。
謙信が京都に上洛した時、その時の関白、近衛前嗣の会いました
その前嗣の誘いを断れず、美童を抱いてしまった。という話です。
また、謙信の忠臣の(あれ名前はなんだったかな)^^;
・・・・・・を抱いたという事です(爆)

追伸   その忠臣をご存知の方返信御願いしますm(_ _)m


関東管領 真田昌幸

霞さんの投稿を見て思い出したのですが、
武田信玄は高坂昌信が小姓のときに18禁のことをやってしまったそうです。


織田信忠

霞殿殿が言われていた謙信の忠臣ですが、直江兼続だと思います。
友達から聞いた話なので確信はありませんが。

あと、信長と蘭丸もそういう関係だったといいますが、信長は前田利家とも
そういう関係だったそうです。「武功夜話」かなんかの信長の発言にありました。
まあ、こういう歴史書にある人物の発言は信憑性が低いといいが・・・。


小烏丸

当時の武将で、衆道(つまり男相手)に手を出していた人が多かったというのは
事実ではないでしょうか。当時は衆道に手を出すより、戦場に女を連れて行く方が、
非常識と思われていたからではないかと想像します。
そうすると、信長が森蘭丸に手を出していてもおかしくないのではないかと思います。
京に永く滞在した信長に京の女が居たという話しも聞きませんし(知っている方は
教えて下さい。私が調べた限りでは分かりませんでした)あれだけ子どもを作った
信長が不能だったとも思えません(秀吉不能説なんてのも有りましたね
そうすると、身近に居た蘭丸に手を出しても不自然ではないかと思います。


ラン

子烏丸さんの投稿に戦場に女子を連れていくのが
非常識と意見が出ていましたが
徳川家康が側室・・・お梶だっけ・・・を関が原や大阪に
連れていっていたようですし
秀吉も淀の方を小田原に連れていったと聞きましたが・・・
ちがいましたっけ?


風姿花伝

家康の大坂の陣に帯同した側室はお六だったと思います。


五十公野 重家

 この衆道についてですが、霞殿や信忠殿が
上杉謙信の衆道について述べられておられますが私が思う所では、
まず上杉謙信が直江兼続を寵愛したという点は
かなり信憑性は低いと判断します。
兼続は謙信の小姓や側仕として物語や歴史的読み物に登場しがちですが
兼続は謙信より謙信の姉千桃院に気に入られたらしく、
一応は謙信の小姓として籍は置いたが景勝の側仕えとして見られ、
謙信との特別な接点は少なかった可能性が高い。
ちなみに謙信は小姓を立派な武将として育てるべく数多く有した。
一見すると謙信が美童を好んだようにもとれる節だが、
これは謙信の資料(独自の収集の範囲で)から判断すると
謙信は家臣の掌握には苦労したほうなので人質としての意味合いと、
後の家臣の教育のため、そしてこれは太田資正の謙信評にもあるが
「慈恵にして下を育し、好みて忠諫を容るる等の如き、」云々とある。
まあこの辺の根拠(持論)を上げていくときりがないのだが、
ようは兼続が寵童だったというのはあまり歴史的根拠に乏しい。
(兼続寵童説を否定している読み物は多い)
 あと近衛前嗣に進められ・・・の件だが
確かに謙信が二度目の上洛の際に淋病のような物を患ったようだが、
この説は読み物に度々見られる。しかしあくまでも
想像や仮説の域を脱しておらず、この当時武家に生まれた男子なら
幼い段階で女を与えられるのが常識である。
謙信は六歳ぐらいで林泉寺に預けられるが割と早い段階で呼び戻されている。
あまり知られていないが謙信には正室こそいないが側室?の様な感じで
直江直綱の娘、近衛前嗣の妹等がいる。謙信がよく宿舎として利用していた
近江の坂本は美童だけでなく遊女など比叡山の僧たちが
ひめごとによく利用する所らしい。と言うことで謙信は美童ではなく
女でこの手の病気をもらった可能性があると言うことと、
歴史家の人や小説の著者などは一般的な通説を好まない傾向にあるし
二通りの説があれば根拠がどうであれインパクトのある方を取る
(小説の著者に多い)のでこれも私はどちらとは言い難いと思います。
 しかしこの時代では衆道は常識の範囲で行われていたので
謙信もこれに当てはまることは十分にあり得ます。
謙信は両方いけたのかもしれませんしね。
(あぁー謙信のイメージが・・・・)

桃太郎侍

武田信玄小姓への手紙

実は、僕も友達から聞いた話しなんですが
武田信玄の直筆の小姓への手紙が見つかったようなのです。
しかもその内容が結構甘えた感じのものだったそうです。
(ねえ、いいじゃん)のような感じ!!
だったそうなのです。信玄は、そっち好きだったんですかね(^^ゞ
ちょっと、きらいになりました。(T_T)

秋山信友

大内義隆は女よりは男が好きだったようで、実子がいなかった。
男色に関しては鬼と言ってもよかったようで、陶晴賢や相良武任、
挙げ句の果てには小早川隆景まで寝床に呼んだらしい。
(これを聞いた元就は心の中で激怒したとか・・・・・。)
陶に裏切られて逃げる時も男色相手が一緒に逃げていたそうですから。
(武将と言えた人物は一人、二人くらいでした。)
家康はほとんど男色には興味がなかったそうだが一人だけ、
寝床に呼んだ人物がいた。井伊直正である。





投稿本当にありがとうございました。

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