尾張徳川&紀州徳川の謀反計画
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濱野意忠
三代将軍・家光とその叔父に当る尾張徳川家・義直とは
以前から馬が合わないことで有名であった。
一説によると、「お坊ちゃん」タイプの家光の高飛車な態度と
「四角四面」で融通の利かないタイプの義直の態度が
ぶつかり合っていたと言う。
非はどちらにあるかは別として、尾張・義直が将軍・家光に対して
謀反を企て様としたことがあった。
寛永11年夏、家光は京に上ることとなり、この帰路に名古屋城で
休息をとる旨を義直に告げた。
将軍が自宅(名古屋城)に立ち寄ることは家門の誉れとして
義直は喜び、将軍宿泊のための御殿の造作までしていた。
ところが、いざ帰る段になるとこの話しは突然中止になった。
理由は、「義直に謀反の疑い有り」というものである。
驚いたのは義直自身である。
職人を掻き集め、昼夜兼行で御殿まで造営し、尾張国中において
将軍のお出迎えの準備をしていたにも関わらず、根も葉もないウワサに
よって突然の中止を告げられたのでは面目丸潰れである。
打ちのめされた義直は、自分と同様に家光の上洛に随行していた
弟・紀州頼宣の宿舎を訪れ、悶々とした胸中をぶちまけた。
「この度のお上のなされ様は、余りにも情けない仕打ち。お陰で私は
天下の笑いものとされ、家臣達にも会わす顔が無い。かくなる上は
名古屋城に籠城して将軍と一戦交える覚悟である。」
それを聞いた頼宣は慌てて思いとどまる様に説得したが、心中の大事を
口にした義直は、後には退けない覚悟を決めていた。
頼宣は、その覚悟を汲み取ると大きく感嘆して、
それ程思い詰めているのならと、
こう言った。
「兄上が如何に籠城しようと尾張一国で全国六十五カ国を相手にしたのでは
勝ち目はない。戦う覚悟であるなら勝たねばならぬ。籠城など止めて、
将軍の帰路の途中に攻めかかるがよい。兄上が兵を挙げれば、
私も兵を挙げて共に戦いましょうぞ。」
これに驚いたのは言い出した義直であった。
二歳年下の弟・頼宣の大胆な発言は更に続いた。
「勝ち目の無い籠城をし、十重二十重に囲まれて
詰め腹を切らされることの方が武士の恥辱。ここは打って出るべき。
もし、お上を討ち漏らす様なことがあれば
兄上共々この私も枕を並べて討死しましょう。」
頼宣の決意を黙って聞いていた義直は、はらはらと涙を落とすと
「かたじけない。しかし、これは当家(尾張)の問題。
関係の無い紀州までを巻き込んで
迷惑をかけることはできないし、尾張・紀州が
揃って将軍家に弓を引いたのでは権現様(二人の父・家康)に背く事になる。
謀反の企ては聞き流して下され。」
と、言ったという。
こうして尾張・紀州の謀反は実行されなかった。
その後も尾張・義直に対して将軍・家光の嫌がらせは続いたが、
遂に義直は謀反を起こさなかった。
投稿本当にありがとうございました。