詳しく知られていない信忠の死
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吉良篤次郎
信長公記原文より
「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」
「三位中将信忠、此の由きかせられ、
信長と御一手に御なり候はんとおぼしめされ、
妙覚寺を出でさせられ候ところ、
村井春長軒父子三人走り向かひ、
三位中将信忠へ申し上げ候趣、
本能寺は早落去仕り、御殿も焼け落ち候。
定めて是れへ取り懸け申すべく候間、
二条新御所は御構へよく候。
御楯籠り然るべしと申す。
これに依りて直ちに二条へ御取り入り、
三位中将信患、御諚には、
軍の巷となるべく候間、親王様、若宮様、
禁中へ御成り然るべきの申仰せられ、
心ならずも、御暇請なされ、
内裏へ入れ奉り、爰にて僉議区なり。
引き取りて退かれ候へと、申し上ぐる人もあり。
三位中将信忠御諚には、
か様の謀叛によるものがし候はじ。
雑兵の手にかかり候ては後難無念なり。
爰にて、腹を切るべしと仰せられ、
御神妙の御動き、哀れなり。
左候ところに、程なく、明智日向が人数着き懸け候て、
猪子兵介、福富平左衛門、野々村三十郎、
篠川兵庫、下右彦右衛門、毛利新介、
赤座七郎右衛門、団平八、坂井越中、
桜木伝七、逆川甚五郎、服部小藤太、
小沢六郎三郎、服部六兵衛門、水野九蔵、
山口半四郎、塙伝三郎、斉藤新五、
河野善四郎、寺田右衛門、
此の外、各切って出で貼、伐り殺し、
きりころされ、我ら劣らじと、相戦ひ、
互ひに知りつ知らるる中の働きなれば、
切つ先より火焔をふらし、誠に張良が才を振ひて、
樊噌が勢いにも劣るべからず。
思ひ貼の働きあり。
(中略)
六月二日、辰の刻、信長公御父子、
御一門、歴貼討ち果たし、明智日向申す様に、
落人あるべく候間、家貼をせと申しつけ、
諸卒洛中の町屋に打ち入りて、
落人を事、目も当てられず。
都の騒動、斜ならず。江州の御人数、
切り上げ候はんやの事を存知、其の日、
京より直ちに勢田へ打ち越し、
山岡美作・山岡対馬兄弟、人質出だし、
明智と同心仕り候へと、申し候のところ、
信長公御厚恩浅からず、忝きの間、
中々同心申すまじきの由候で、
勢田の橋を焼き落し、山岡兄弟居城に火を懸け、
山中へ引き退き候。爰にて手を失ひ、
勢田の橋つめに足がかりをて拵へ、
人数入れおき、明智日向守、坂本へ打ち帰り候。」
(後略)
原文のままですので、著者が間違えたと思われる文字は
直しませんでした。
投稿本当にありがとうございました。