明智光秀の望み
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濱野意忠

現在の倫理観で言えば「反逆者」である光秀も、
当時としては英雄になり得る可能性はあった。
そもそも光秀は、信長の家臣の中にあっては出世頭の一人であった。
それは「超合理的主義者」織田信長がチャンスを与え、
それに結果を出したからに違いない。
つまり、光秀自身も「合理的主義者」の面を持っていた。
「信長殺害」の動機はいくらでも考えられるが、
その中のひとつに「怨恨説」というものがある。
光秀自身に向けられる信長の「いじめ」や人質となっていた母親の
見殺しが原因と言われる。
確かにその説は有力である。
だが、私はそれを一歩進めて考えてみた。
信長勢の勢いはあった。しかし、まだまだ天下統一の終点は
見えてはいない。
光秀は、このままいつ終わるとも知れぬ戦乱の世を、
一刻も早く終わらせたいと考えていた。
これは信長も同じではあるが、信長は
その頂点に立つことを望んでいる。
しかし、合理的な一面のある光秀は「和」をもって戦乱を
終わらせ様としていたのではないか?
それは、自分の母親までを犠牲にした戦乱を終わらせるには
「武力」ではなく朝廷や将軍・義昭を仰ぎ、信長を殺し、
自分は京にいて諸国に停戦を命じる。
(命じるのは光秀ではなく朝廷か将軍にする。)
信長軍が諸国への進行を止め、
諸国の大名の今までの生活を保障すれば、
戦はなくなるのではないか? そう考えていたかも知れない。
現に、当時(本能寺の変直前)諸国の大名の中で
京に上ろうと考えていたのは上杉景勝だけである。
しかし、それも信長に刺激されただけという見方もある。
歴史家の一部では、「皆、京を目指していた訳ではない。」と言う
意見がある。これには私も賛成で、現在定着している様な
大名と家臣の強烈な結びつきの関係はなく、どの大名も
極力戦乱を避け、自国を守り、民の生活を安定させることの方に
力を注いでいたはずである。
隣の国の圧力に負けぬ様にするためには、自国の兵力を高めるか、
逆に攻め滅ぼしてしまえばよい、の延長が
戦乱の世の流れである可能性は高い。
光秀がこれ以上の出世欲を持たず、
とりあえず京にあって朝廷や将軍の後ろ盾として存在することで
良いとすれば、そして諸国の大名領地の保障を前提に
話を進めたらどうなったであろう?
甘い考えかも知れないが、光秀は天下人になろうとは思ってなく、
「もう戦争はやめよう。」と
諸国に呼びかけ様としていたのではないだろうか?





投稿本当にありがとうございました。