家康・秀忠親子の大芝居 !?
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濱野意忠

西暦1600年、天下分け目の関ヶ原の合戦において徳川秀忠が
上田城に立て篭もる真田昌幸・幸村親子攻略に手間取り、決戦に
遅参するという大失態を演じ、家康公が「顔も見たくない!」と
激怒したことは有名でありますが、果たして本当なのでしょうか?
確かに関ヶ原の合戦はその後の徳川家の行く末を決する
大切なものではありますが、だからこそ秀忠の行動には「?」があります。
疑問@ 「忍耐・慎重論者」
豊臣秀吉没後、着々と政略結婚や書状攻め等を行い準備をした上に
越後の上杉景勝討伐までも装って石田三成の挙兵を狙った家康公には
充分な勝算があったに違いありません。
もし、負けたとしてもその後のことまでも考えていた筈であります。
その証拠に、この合戦に参加した徳川一門や直臣武将は、
秀忠軍を除くと松平忠吉・本多忠勝・井伊直政くらいです。
乾坤一擲の勝負であれば後のことなど考えず、ありったけの
家臣を投入するにのが自然なことなのに・・・、その後の兵力の
温存を図っていたに違いありません。
疑問A 「大事の前の小事」
中仙道を進んだ秀忠軍は信州・上田城で真田親子に翻弄されて
遅参とされていますが、果たして三万の軍勢を率いている秀忠軍が
「お家の大事」を前に本当にどちらに重きを置いていたのかが疑問です。
確かに秀忠軍には相当の被害が出てはいますが、もし本当に
関ヶ原が大切であれば何割かの兵を残して本隊を進軍させれば、
相手は籠城を決めている以上、その兵力は出撃しての戦いでは
不利な筈です。
事実、以前に家康公が「三方ヶ原の戦い」で武田信玄にこっ酷く
大敗した原因となった「領地の素通り」作戦に懲りた家康公は
その時の困惑した自分の姿を描かせて後世に伝えていたことを
考えると、秀忠が大事の前にムキになって城攻めをするは解せません。
つまり、秀忠は関ヶ原に向かうことには変わりはないものの、
関ヶ原での勝算は父である家康公に全て任せ、自分は今後の
強敵となる真田親子の掃討をしようとしていたのではないでしょうか?
(結果的には、この戦いに関しては真田親子の方が上手でしたが・・・)
疑問B 「豊臣VS豊臣」
関ヶ原の合戦は、家康公VS石田三成ではありますが、実際に戦った
武将を見ると「武功派」(三成憎し)VS「文治派」の様相を呈しています。
つまり、どちらも豊臣恩顧の武将達が主役を演じています。
中には「次期将軍は家康公だ。」と考えて動いた者もいますが、
これも家康公が巧妙に仕組んだ「豊臣潰し」の手段で、先述の様に
徳川勢力温存プラス豊臣勢力削減の一石二鳥ではないでしょうか?

結論
家康公と秀忠の関ヶ原の合戦前後の行動おいて、
@関ヶ原では秀忠が来なくても、既に家康公には勝算があった。
A殆どの家臣を秀忠に付けて徳川勢力温存を図った。
B邪魔な真田親子を潰そうとした。(これは失敗)
C豊臣勢力削減を図った。
家康公が秀忠に対して怒ったのは、上記の@〜Bの計画が
バレない様にする為と同時に、味方に付いた豊臣恩顧の武将に対し、
怒ることで彼等の溜飲を下げることを目的としたことに成功したのでは
ないでしょうか?
つまり、家康公親子の恐るべし「大芝居」によってその後の徳川家が
安泰であったと・・・。
*「お断り」です。これはあくまで邪推です。
 ご不満も多々あるとは思いますが、「こうだったら面白いな」と
 思っただけですので、苦情については勘弁して下さいね。(汗)
 「私なら更にこう思う !」という、「加速を付ける」ご意見は、
 「歴史討論用掲示板」で楽しく想像し合いましょうね♪
 では、また。

無風道人

秀忠の関ケ原の延着には何か意図が有とは感じます。
家康の戦場や敵の諜報活動の綿密さは、
他の武将の群を抜いています。その家康が
味方の情報を知らない筈が有りません。
政略で毛利を大阪城に釘づけする事に成功し、
その成功を知っている家康にすれば大垣までの進度を緩め
秀忠を待つことも可能だった筈ですから
何か遅延を意図的に行う理由があり勝利後に
謀が他の武将から露見しないように秀忠を
叱りつける芝居をしたと感じます





投稿本当にありがとうございました。