偏諱についての雑感
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斯波義麿

 上位者が下位者に諱(いみな)<本名>を一字与える事を偏諱(へんき)の下賜と言い、中世以降、公家、武家社会において広く行われて来ました。主君から家臣に授与する例が多いのは当然として、親子においても嫡出子、非嫡出子を問わず、父親の偏諱(へんき、かたいみなとも読む)を受け継ぐ例は、非常に多く、同じ文字を共有する歴代当主が連綿と続く系図を探すのは容易であり、これが一般化した風習であったことを物語っています。
 親子の”相伝”の例としては、後北条家の氏綱、氏康、氏政、氏直のように”氏”を相伝する例、徳川将軍家の家康、家光、家綱、家宣、家継、家重のように”家”の字を相伝する例を挙げることができます。(秀忠、綱吉、吉宗、慶喜のような例外もあります)この二家は、”氏”にせよ”家”にせよ名前の”上”の一字を相伝するパターンですが、伊達家のように晴宗、輝宗、政宗といった”下”の一字を受け継ぐパターンもあります。平忠盛、清盛、重盛、惟盛といった桓武(伊勢)平氏、また、毛利弘元、興元、隆元といった(大江広元流)安芸・毛利氏も”下”の字を伝承しています。後北条氏や徳川将軍家のように上の一字を伝えるより、むしろ、(下の一字を伝える)これらの方が、”伝承”が容易であった理由は簡単に想像つきます。”一字拝領”の栄を賜った場合、上位者の”諱”に敬意を表し、それを名前の上の字として使うのは、当然であり、下には畏れ多くてつけられるはずがないからです。故に名前の上の部分は、歴代君主からの”一字拝領”用にあけておかなければなりませんので、相伝の一字として使えるのは、名前の下の部分しかない、という論理的結論が導かれます。
 後北条氏や徳川将軍家は自らが、地方規模か全国規模かの違いはあるにせよ、誰からも掣肘を加えられない”圧倒的第一人者”であったから”上”の一字を相伝できたのです。
 この強大な二家にしても最初は、上位者からの”一字拝領”を有難く頂戴していたのであり、その形跡は系図が明白に語っています。後北条氏の二代氏綱の”氏”は、旧主家であった今川氏親から”氏”を頂いたのであろうと私は、想像しますが、(その方が関東公方・足利家から拝領するより自然です)徳川家康にしても松平元康時代の”元”は、今川義元からの”一字拝領”でありました。また、嫡男信康の”信”は織田信長からのそれであったのは確実です。(不勉強で資料に疎い私は、このあたり、すべて推測で述べております。本稿が”論文”でも”研究”でもない、ただの”雑感”と題されたゆえんであります)家康の次男、結城秀康は豊臣秀吉の”秀”を拝領しており、三男秀忠も同様です。これらの例は、後北条氏、徳川氏といえども最初は、上意下達的に偏諱を有難がたく(無論、本心ではないでしょうが)拝領していた”下目の修行時代”があった事を物語っています。
 さて、以上述べ来たった事を前提に私は、本稿の主旨というべき或”推測”を語りたいと思います。
 足利将軍家、通称”室町殿”の歴代将軍は、みな義満とか、義教とか義昭といった具合に”義”の偏諱を相伝しています。本来、足利氏の相伝の偏諱は、名前の”下”の字の”氏”でありました。実際、”室町殿”の侮りがたい対抗勢力であった関東公方足利家の歴代当主の多くは、基氏、持氏、成氏といったように”氏”を伝承しています。鎌倉時代、北条得宗家の下風に甘んじていた雌伏時代の足利氏は頼氏、貞氏、高氏といった具合に”氏”を偏諱とする家系であり、関東公方家は、その伝統を維持し続けたと考えられます。では、なぜ、”室町殿”は、それを踏襲しなかったのか。
 普通考えられる理由は、”氏”を名前の下にする”下目”の姿勢は、最早、天下人となった”室町殿”にはふさわしくない、”室町殿”は、一字を与える側であって、拝領した場合の為に名前の上をあけておく必要はない、という説明です。しかし、その場合でも、相伝の偏諱がなぜ”義”なのかという第二の疑問が生じます。たぶん、その疑問に対しては、初代、足利義国(八幡太郎義家の三男)に相伝された、源氏の伝統的偏諱”義”に”回帰”したい、鎌倉の頼朝のような内に北条と言う怪物を抱えた、制限的な、婿養子的な、オーナー気質の坂東武者たちに或る意味、雇われ社長的に見られていた”鎌倉源家三代”の屈辱的歴史を”正したい”、日本中の武士たちを八幡太郎義家時代と同じ忠誠心の”家の子、郎党”に再編成したい、本来の武家の棟梁の姿を実現したいという意思の表れであった、という説明がなされるでしょう。私は、そういった説明は、一理も二理もあり、おおむね、賛成したいのですが、すべてを説明し尽くしていないと考えます。
 私の考えでは”室町殿”歴代将軍家が相伝した”義”の字とは、足利初代義国の”義”でも八幡太郎義家の”義”でもない、観応の擾乱で敗れた、足利直義(尊氏の弟、幕府副将軍)を鎮魂し、足利家の守護として、祟るのでなく、末代までもご加護を賜らんと願いを込めて、その偏諱、”義”の字を十五代、義昭まで、例外なく続けたのであるという事です。と、いうのも、直義は、最後、毒殺されたという説が専らである上、彼自身には、尊氏に対して謀反の意思など毛頭なかった事を最も知る人は、ほかならぬ尊氏自身であったからです。それに幕府立ち上げ時の政策の立案、方策の決定に最大の影響を与えた”政治家”であり、実質上の征夷大将軍であった事、”幕政家”として自分(尊氏)は遠くこの弟に及ばないと、痛感していた尊氏は、この弟を死にいたらしめた責任を誰よりも感じていたであろうし、その負い目は、とうてい、”他人の”窺い知ることのできない深く、切なるものがあった、と推測されます。捨て子同然に放置していた長子、直冬を(厳密な人物考査の後、)認知させるべく、尽力したのもこの弟であったし、大塔宮護良親王の暗殺という”汚れ仕事”を尊氏の代わりに命じたのもかれ直義でした。何より、高師直、師泰兄弟の横暴の実態、その”非”を知る尊氏は、弟である彼の”反”尊氏的行動が、謀反でなく、”正当防衛”であると誰よりも知っていたでしょう。ここに尊氏が遺言として「諱”義”を相伝せよと」口伝した室町殿の”秘儀伝承”の存在を推理する根拠があります。
 以上のような理由から、私、斯波は、”武衛家”の名にかけて”室町殿”歴代の偏諱の”義”は、副将軍直義公の”義”であると推理するものです。
 長々の御静聴、まことに有難うございました。





投稿本当にありがとうございました。