頴娃村郷土史「眞田幸村の頴娃潜入」
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投稿者不詳
第11章 真田幸村の頴娃潜入(傳説)
第1節 頴娃初代の地頭新納祐甫
慶長5年10月、伊集院忠眞が頴娃より
帖佐に移ってから以後の頴娃郷は、又もともと通り、
義弘公の知行所になったわけてある、
文政七年調査の「頴娃郷諸奮跡御糺帳」の中には
頴娃郡頴娃郷は建久のころ頴娃三郎忠長の領地にて、
其子太郎忠房その子忠方その子忠次それより
他家これを領す、承應のころ純友の末葉、
頴娃次郎左衛門久純の領地にて、
同じき左衛門尉憲統の代に島津元久公に叛き、
御退治あり、御舎弟久豊公御領地となり十七年ほど
御在城あり、日州穆佐御城代に移され、
其の跡に肝付氏の二男左馬頭兼政に頴娃を下され
代々領地のところ元亀二年頴娃家に内訌あり、
天正年間、義弘公御誅伐、それより一郷に相立ち
小由申伝へ候云々
とあり、右調書中、天正年間義弘公御誅伐とあるのは、
何事を指すのか能く分らないが兎に角、
伴頴娃氏の没落後わが頴娃村は
暫く義弘公の知行所となったことは「西藩野史」にも
明らかに記載してある、即ち伴姓頴娃氏彌三郎久音が
天正十六年に薩州頴娃を立ち去って、
谷山郷山田村に移つてから、慶長五年伊集院忠眞の
頴娃所領まで凡そ十三年間になるのだが、
其の十三年間に於ける頴娃郡頴娃郷は全く公領に帰し、
其の間に文禄三年の三州検地あり、
これと同地に三州諸族の異動あり其の時、
わが頴娃村は島津義弘公の所領となったことは
既記を経た通りである。
さうして義弘公の所領時代わが頴娃村は
一時源次郎忠眞の知行所となり、
而して忠眞転出の後は再び義弘公の所領に帰し其以來、
地頭を置き、いはゆる地頭政治を施行したものである。
薩州頴娃公領直後、第一代の頴娃地頭は
新納勘解由次官祐甫といふ武士であった、
その新納祐甫は新納氏の一族で、五十からみの大柄な、
赤ら顔の、如何にも元氣そうな好々爺であつたらしいが
無論、数ある諸士の中から撰抜されて
頴娃初代の地頭職に補せらるゝ程の男だから、
相當學問もあり、見識もあり才幹もあつて
穎娃一郷の民治と軍備とを兼ね掌るには、
何等不足のなき人物であったことは
決して想像に難くはない、しかしながら
其の初代地頭の新納祐甫が如何にして、
頴娃地方の民政と軍政とを兼攝?梅したか、
これ等の事蹟は何等文献の徴すべきものもないから
今これを明確に知ることは出來ない、
が、しかし新納祐甫の地頭時代には……
慶長十九年新納祐甫就任……
大阪に豊臣秀頼の挙兵……
慶長十九年九月の大阪冬の陣があり、
翌元和元年五月の大阪夏の陣があり、
世の中は随分物騒になって我が頴娃村の地にも
大阪乱の軍資として相當出來を課せられたり、
又は相當入数の出兵を促がされたり何かして、
随分と事繁く、初代地頭の新納祐甫は
着任匆々から民治軍備兩方面の事務に、
どれほど苦労したか知れなかった
ところが――
其の大阪一乱後わが薩摩には
御大将豊臣内大臣秀頼公を始め、眞田幸村、木村重成、
大谷吉?(刑部義隆の遺児)、後藤基綱、明石金登、
伊木遠雄、北川宣勝等上下一千余人の大阪残党が
続々と逃げ來り(鹿児島外史所説)、
而して我が頴娃村には大阪方の大立物であつた
眞田左衛門幸村が乗り込んで来るし(古老談)
直ぐお隣の山川町には大阪陣の花形役者
木村長門守重成が潜入するし(伝説)したから猶のこと、
新納祐甫は其の取締や何かのため
頗る多忙を極めたこだらう
「薩藩舊傳集」には
木村長門守は大阪落城の後、加治木に落ち來る、
名は有丘、伊左衛門と申し、小屋掛に居り、囲碁に耽る、
萬治二年六十二にて死す、加治木安國寺に墓あり、
書類行季に入れ、天井に吊す、死去の際焼き捨つ、
槍は柄の末、切り捨て一間ばかりあり、
さゞらのやうにつぶる、加治木曾木家にあり云々
また「薩摩風土記」には
鹿児島下町の上方問屋に長門守跡系図ありといふ、
木村權兵衛という人あり、
これ木村下町納屋通上に山口氏の八百屋あり、
眞田の末といふ紋六文銭をつけるあり、
同所仲町につさやあり秀頼の書物ありと云々
第二節 眞田幸村は日本三槍の一人
眞田左衛門幸村は入薩後、名を芦塚左衛門と改み、
其初め谷山に潜伏してゐたが、
其の眞田幸村は見上ぐる如き大男にて知謀湧くが如く、
勇気また人に勝れ、好んで長槍を使つたがその槍術は、
頗る精妙を極め、後藤又兵衛の投げ槍、
木村又藏のシバキ槍、眞田幸村のハネ槍と言って、
其のころ天下三槍の名が世上に轟き渡ったものだった、
さういふ稀代の豪傑が我が頴娃村に
突然しかも秘密裡にやつて來たものだから、
其の當時の頴娃人はされはどれほどの衝動を受け
又はどんな感銘や感化を受けたことだつたろうか、
だが、其の時、眞田幸村は必ず身の素姓を包み
又は姿を変えたり、名を変えたりして、
こつそり我が頴娃村に忍び入ったものに相違ないから、
其の當時の頴娃人は別にそんな豪傑とは知らう筈はなく、
從つて唯か何処かの風來坊がやつて來たぐらゐで、
何等衝動を感じなかったかも知れない
尤も其のころの薩摩人は、眞田幸村を
芦塚大左衛門と呼び、其の子の大助幸綱を
芦塚中左衛門と呼び又その孫を
芦塚小左衛門と呼んでいたさうである(鹿児島外史)
さうして眞田幸村の子大助幸綱は
後年―寛永十五年正月、豊臣秀頼の子
天章四郎豊禎(或いは天草四郎時貞に作る)を惣大将に
押し立てて、前肥島原にキリシタンの
大騒動を捲き起こした大豪傑であつた
眞田幸綱等が盟主に戴いた天草四郎豊禎は
豊臣秀頼が元和元年五月、大阪夏の陣後、
大阪を脱がれて薩藩へ逃げ下つて來てから、
鹿児島上町谷村酒屋の娘お何に、生ませた隠し子で、
其の豊禎といふ名前は豊家まさに興らんとす、
必ず禎祥ありの義に拠つて名づけたものである
其の天草四郎豊禎は祖父豊臣太閤秀吉にも劣らぬ程
大豪傑で、その聡明雄略まことに倫を絶し、
其の時わづか十四歳の若僧ながら馬を一陣に進めて、
三軍を統率指揮するところ其の祖父豊臣太閤秀吉が
木下籐吉郎時代の武者振りを
其のまゝ目に見る如き心地して、
敵も味方も天ツ晴れ武者振りよと
感嘆措かなかつたものだつた
だか、其の神童天草四郎豊禎も、
天下の大軍にはとても敵対出来るものでなく、
彼等が金城湯池と頼んだ肥前の原城は
幕将松平伊豆守信綱等十二萬余の聯合軍から
十重二十重に攻め囲まれ遂に
元和二年二月二十八日もろくも落城した、
其の時、天草四郎豊禎の大軍師森宗意軒は、
得意の幻術を使って島原一園、黒暗々の大魔界となし
其の隙は四郎豊禎以下の残党を薩摩に逃げさせた
第三節 天草騒動と大阪残党
天草四郎豊禎の子孫は、谷山郷木下村にあり、
代々百姓となり、然も其の家には豊臣秀頼が
遺愛の金煙管および豊臣秀吉が千成ひさごに似せて
作つた金串柿九十九連、其の他の珍品を
襲藏したものだつたまた眞田幸綱の子孫は
山口の苗字を名乗り家の紋には六曜星を使用したが、
其の六曜星を俗間では六文銭と誤まり傳へてゐる
ところで―頴娃別府村淵別府には、真田幸村が
一時潜伏して居ったといふ隠れ家の跡があり、
又その附近の川端には
眞田幸村の墓と称する古墳がある、
土地の故老の実話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、
薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、
此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を
小間使ひに雇ひ入れて、
身のまはり一切の世話をさせてゐたが、
さて遠くて近きは男女の仲……
そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、
摺木出の小間使ひは何時の間にか
眞田幸村の胤を宿して、近頃酸っぱいものを
非常に欲しがるやうになつた
でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、
若しも事が暴露れると世間様に對して
甚だ申譯がないとでも考えたものか、
巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にして
やった、さうすると間もなく月満ちて、
其の女は産の紐を解き、丸々と太った
玉の如き男の子を生んだ、其の男の子こそ
眞田幸村の隠し子であつて、後に眞江田某と呼び、
苗字帯刀を許された男である、
さうして眞田幸村の子孫は今現に頴姓村別府大川にあり、
其の姓名を眞江田三左衛門といふ
其の眞江田は眞田をもぢつたもので、
三左衛門は左衛門をもぢつたものである、
若しも世が世であれば眞江田三左衛門幸〇と名乗つて、
一廉の武士にでもなつて居るべき筈である
投稿本当にありがとうございました。
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