武田家
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吉良篤次郎

 武田信玄で有名な甲斐の武田家の始まりは、長元四(1031)年に、
源頼信が甲斐の国守として、京の都からやって来たのが始まりで、
その後、甲斐源氏として五百年の歴史を持つ名門に成長していった。

頼信の後、頼義、義光(新羅三郎)と続き、国守の地位を
しっかり固めた一族は、義光から三代のちの信義の時代に、
武田の姓を名のるようになった。

ところが、国人たちが同族どうしで争うようになり、
武田一族の力が衰えると、守護代だった跡部一族に
甲斐の実権を握られ、武田家の存在は、薄くなっていった。

その跡部一族をおさえ、武田家の勢いを盛り返したのが、
十六代目の信昌だった。寛正六(1465)年、信昌は夕狩沢で
跡部一族を全滅させた。四百年ぶりに甲斐の守護大名の
実権を取り戻した。

信昌はまもなく、十七歳の信縄にあとを継がせ、隠居した。ところが、
信縄の弟の信恵が、兄だけが領地を継ぐのは不公平だ、
と言って争いを起こした。こうして甲斐の豪族たちが信縄方、
信恵方に別れ、にらみ合うようになった。

明応元(1492)年、ここぞとばかりに、今川軍が甲斐に乱入してきて、
明応四、五年には、伊勢新九郎(北条早雲)が
富士山のふもとをまわって、甲斐に攻め込んできた。

信縄は、たびたびやってくる侵入軍を撃退してきたが、
永正四(1507)年に病死した。十四歳の信虎があとを継ぐと、
叔父である信恵が巻き返しを図った。

そこで信虎は、わずかな兵を率いて、曽根勝山で信恵と激突し、
信恵を討ち取った。信恵の弔い合戦を挑んできた
小山田弥太郎の軍も河口湖で破った信虎は、おおいに自信をつけた。

その後、数年の歳月を費やして甲斐を統一した信虎は、
南信州に侵攻するようになった。しかし甲斐の内政を
ほったらかしにしていたのが凶となって、家臣の信頼を失い、
実の子の晴信に甲斐を追放された。
信虎に味方する者は一人もいなかった。

一年かけて甲斐を治めた晴信も信濃に侵攻し、小笠原長時、
村上義清などの豪族を追い詰め、信州の大半を手に入れた。

信州の豪族に助けを求められた長尾景虎(上杉謙信)
は、さっそく信州川中島に侵攻して、武田軍と戦った。以後、
十一年間にわたって武田軍と戦うことになる。

その後晴信は、三国同盟を破り、駿河の今川家を攻撃して
駿河を手に入れた。この頃晴信は出家して、名も信玄と改めた。

北条家の小田原城も攻撃するが、落とせず駿河に退却。
矛先を西へと向け、徳川領遠江に乱入して、
三方ヶ原で徳川軍を相手に大勝利を収めた。ところが持病が悪化し、
信州の駒場で病死。

後を継いだ勝頼は、自分勝手に織田領、徳川領などに
乱入したりしたが、天正三(1575)年の長篠の戦いで
決定的な敗北をして、家臣に見限られ、一族と共に、
甲斐の天王山で自害した。ここに約五百年の歴史をもつ
甲斐源氏の武田家は滅びることになった。





投稿本当にありがとうございました。