里見家
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姫神

 新田氏の一族で室町中期から南房総に勢力を拡大した大名。

 戦国時代は、北条家と長年に渡って抗争を繰り広げたが、
最終的には敗北を喫して版図を減じた。
のちに勢力回復するものの、小田原攻め遅参をとがめら
れ安堵されたのは安房一国のみ・・・。

 1614年に嗣子がないためそのまま断絶となった。

水野白楓

一般には新田系で、結城合戦で結城方だった里見義実が
安房に逃れたとされるが、実在証明できるのは3代義通以降である。
このころには安房を平定し、三浦氏を助けて北条(伊勢)氏と争い、
足利義明の小弓公方就任に助力したのは史実らしい。
1533年、4代当主・義豊と譜代家臣が後見人・実堯(義通の弟)と
三浦氏の遺児で重臣正木氏を継いでいた正木時綱の専制を
排除する粛清を行うが、翌年実堯の子・義堯と
時綱の遺児(時茂・時忠・弘季)による反撃で義豊派は倒され、
義堯が安房一国を掌握した。義堯は宿敵・北条氏康からも
認められるほどの仁政を行う一方で、真里谷武田氏の内紛に乗じて
久留里をはじめ、上総の大半を平定する一方、足利義明の
第1次国府台合戦に参戦して以後反北条の姿勢を明確にして、
上杉謙信に接近した。だが、1564年第2次国府台合戦では大敗を喫し、
正木信茂(時茂嫡男で義堯の娘婿)、
弘季(時茂末弟で憲時実父)ら重臣を失い、
正木時忠(後日、帰参)を含め上総諸将の離反を招く。
更に義堯・義弘が相次いで没すると
北条氏の力を借りて義弘の弟・義頼が7代当主になるに及んで、
これまで忠誠を尽くした正木憲時(信茂死後、正木氏宗家に入嗣)も
反乱を起こす。義頼は義堯時代に近い勢力を取り戻すも、
1590年の豊臣秀吉の関東平定時に上総・三浦の北条方攻略に熱心な余り
小田原参陣に遅れた上、若い当主・義康が「古河公方再興して
再び鎌倉に置いて欲しい」と述べて秀吉の怒りを買い
安房一国に減封される。関ヶ原では東軍について鹿嶋3万石を加増され、
9代当主忠義は老中・大久保忠隣の娘婿となる。
だが1613年、忠隣改易に連座して倉吉3万石に減封(実際は配流)され、
忠義死去とともに改易される。
本多・大久保の権力闘争のとばっちりではあったが、
戦国以来の強力な水軍を持つ里見氏が安房館山に
義父・忠隣が対岸の小田原におり、江戸湾の入口両岸を押さえていたこと、
里見氏が徳川(世良田)氏よりも新田流として格上であったことへの
徳川の一方的嫉妬(里見のそれは徳川の系譜より怪しいのだが)、
徳川側の疑心を招いたのではと言われている。
ちなみに正木時忠の孫は徳川家康の側室となって
紀州頼宣・水戸頼房を産んだため、正木氏は旧姓の三浦に戻って、
代々紀州藩家老を務めることになった。





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