南部家
戻る

多田 康悟

元は甲斐国巨摩郡南部郷に拠点を置いていた甲斐源氏の一族で、
甲斐武田氏とは血縁関係にある。
祖は南部光行で、源頼朝の奥州征伐に従軍、功を上げ、
陸奥国糠部郡を拝領する。ちなみ甲斐の名物である『ほうとう鍋』は
この時その味を忘れまいという意志の元この地方にもたらされ、
『はっとう汁』として今も岩手県北部から青森県東部に伝わっている。
 戦国期の南部家は相次ぐ一揆や国人衆の反乱に悩まされていた。
二十六代南部晴政の時代に領地は拡大し、
北は下北から南は和賀郡(岩手県中部)までに及んだ。
『三日月の丸くなるまで南部領』という歌はあまりに有名であるが、
耕地面積は極めて少なかったようである。
 代は代わり、二十八代信直の時代に入ると、
家臣の大浦(津軽)為信が謀反を起こし、津軽地方を奪われる。
これを認めなかった信直は小田原に参陣し、秀吉に津軽地方の安堵も求めるが、
時既に遅く、既に津軽為信に朱印状が渡されていた。
また、九戸政実の乱なども起こり、奥州の治安の悪さが明るみになるが、
朝鮮出兵などには進んで従軍した。
 二十九代利直の時代になると、居城を盛岡に移す(信直の時代に始まった)。
関が原の合戦では東軍に属し、上杉景勝の猛攻を受けていた
最上家の救済のため出兵する。しかし、伊達政宗の策謀により領内で一揆が発生。
兵数百を最上家に貸し帰参。これを平定する。
戦後は徳川家康により、領国を安堵され、明治維新まで大名家として残り、
現在も南部家は続いている。
 岩手県盛岡市のマークは南部家が水運に使った菱を従事に交差させた家紋を
使っている。ちなみに南部家の家紋はこの他に
向い鶴(南部鶴)や甲斐菱などがある。
 同市の盛岡城址は岩手公園として残り、
その一角には南部家の当主を奉った桜山神社がある。





投稿本当にありがとうございました。