織豊政権下の大大名と二十一世紀日本国の比較
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斯波義麿

 慶長年間の全国の総石高は、有名な数字ですが、
例の”1851万石”という数字が古来、多くの歴史関係書に
引用されて来ました。それゆえ、わたしは、
”群雄割拠”の力のバロメーターとして、
大名家の保有石高÷1851=支配力の全国シェアとして考え、
その中でも徳川氏の255万石÷1851=0.1377を
天下統一の基準値として、あらゆる時代の”群雄割拠”の
相対関係に適応させる実験を試みたものです。たとえば、
国会の衆議院の全議席数、500に対し、
270議席を持つ自民党は、270÷500=0.54のシェアですが、
これは、慶長(豊臣時代末期)の1851万石の内の
994≒約1000万石を占める、超大大名であるとか、
民主党140議席は140÷500=0.28、これは、
0.28×1851≒518万石の大大名であるといった具合です。
 それゆえ、当然、二十一世紀に生きる我々としては、
日本国の世界シェアに関心を持たざるを得ないわけですが、
基準は、五百数十兆円のG.D.P.(国内総支出)を
使いますと数字は、年度によって変動するのですが。
世界経済の0.125、約八分の一のシェアを有していると
統計書に載っております。
 0.125×1851≒231万石。二十一世紀のわが日本は、
慶長年間でいうところの
231万石の大大名であることがわかります。
バブル最盛期ごろは、0.15を占めていたそうなので
0.15×1851≒277万石の時期もあったと思われますが、
MAXでなくMINを採用するのが、
客観的結論への定石と申せましょう。
 230万石。徳川家康公の255万石には
わずかに及びませんね。皆様は、
このシェアをどう受け止められるでしょうか。
戦国時代、あるいは、織豊政権時代にこれだけの
領地を占める大名が、「ぼくは、天下への野心を持ちません。
脇役が、分相応なんです。お願いだからぼくを一人にして、
ほっといて下さい、お金をお貸しする事ぐらいは出来ますが、
継争事の正邪の判断をぼくに訊いたりしないでください。
何にも巻き込まないで。ぼくは(わが御家は)ひとり、
平和で暮らしたいんです」と言って済まされるでしょうか。
”関が原”の合戦でいえば、毛利120+宇喜田57+
小早川35+石田19=231万石に匹敵する領主が
東西どちらに味方するか、おろおろ、
うろたえて決めかねるなどとは考えられないことですよね。
また、自分は、無力で”小国”として生きて生きたいなどと
ナイーブな発言をしても誰が信じてくれるでしょうか。
わが周辺諸国の風当たりの強さも根本原因は、
この231万石の表高に起因するようです。
ここで、再び同じ問いかけを提起させていただきましょう。
 今の世界におけるわが国は、”関が原”前夜の
日本六十余州における231万石の大大名です。
どのような国家戦略が求められるべきでしょうか。
当江戸幕府の大小名、旗本、御家人の皆々様の
お知恵を拝借したいものです。





投稿本当にありがとうございました。