[264] 不当に評価された名将たち! 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/14(Mon) 05:29:04 武田信玄や上杉謙信、本多忠勝、島左近など不動の人気があるみたいだが、私はあえて今までに正当に公平に評価されなかった人々についてカキコしたい。それも戦国時代ではなく、太平洋戦争に当てていきたい。
私が取り上げたい人物は南雲忠一中将である。南雲中将は公正に論評されているとは言い難い著名の人物である。ミッドウェー海戦の敗北が余りにも衝撃が大きかったであろう。しかし南雲中将は真珠湾攻撃を成功させた功労者である。にも関わらず真珠湾攻撃の成功を評価する人々は南雲中将を全く評価せず、山本連合艦隊司令官や源田実中佐を評価している。そればかりか南雲中将は第二次攻撃を実行しなかったとか、港湾施設を破壊しなかったとか、ハワイ占領を実行すべきだったと言われ逆に非難されている。
このようなことを言う事態間違っている。あくまで真珠湾攻撃の意図は南方進出のために米国戦艦部隊の撃滅である。山本五十六にはハワイの港湾施設を破壊する意図はなかったし、ハワイ占領など全くの不可能であったことを理解しなければならない。米国主力戦艦部隊を撃滅できれば、充分目的を達成したと見なければならない。飛行部隊の訓練、大艦隊の誘導、機密の保護など南雲中将の指揮をもっと評価しなければならない。
それに南雲機動艦隊が参加した東南アジア・ラバウル・印度洋方面での作戦は見事に成功しているのである。ただ問題はミッドウェー海戦であろう。敗戦の原因が空母4隻の喪失であったことは言うまでもない。当然南雲中将に責任はあるが、ミッドウェー攻略を立案・指揮した山本連合艦隊司令長官に最大の責任があったことは否めない。その後南雲中将はソロモン海でミッドウェーの教訓を充分に生かし、索敵・攻撃・被害局限など最善を尽くして、第二次ソロモン海戦では米国空母エンタープライズを撃破し、南太平洋海戦では米空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを撃破して、一時的ながら、米国の空母を使用不可能にさせたのだ。南雲中将の指揮をもっと評価しなければならない。
南雲中将の後任の小沢治三郎中将の指揮する機動艦隊が、戦況がかなり異なっているとはいえ、空母7隻も喪失しているのだ。そして米国機動艦隊に見るべき打撃を与えていないのである。南雲中将が優秀な指揮官であったと思わなければならない。
何も南雲中将ばかりではない・・・戦国時代なら石田三成・豊臣秀次・明智光秀などが全く公平に評価されていないであろう。彼等が行政でいかに苦心したか、もっと評価しなければならない。片寄った人物像で評価してはいけない。もっと現実を見なければならないのだ。
[264へのレス] 投稿者:六角定頼 投稿日:2002/10/14(Mon) 13:10:57 失礼ですが、先に挙げた方と南雲中将ではあまりにも立場が違いすぎます。いわば、先の方は指揮役、南雲中将は実行役です。私は実行役の方も評価したいと思いますが、やはり指揮ができるというのは名将の条件の一つだと思います。あなた様の仰ることは良く分かります。しかし、現実社会でも、現場の人間というのは評価されないものです。たとえばノーベル賞を取った田中耕一様、彼をノーベル賞受賞以前に知っていた国民がどれだけいますか?小柴様は相当数の方が知っていたのに何故彼は知られていなかったか。それを考えると致し方ない気がします。
あと戦国時代において、行政は現代よりも比率が高くなかったのが評価されにくい理由でしょう。現代でも、行政官はなかなか評価されません。いつも公務員は無駄だと叩かれています。私の父も高級行政官つまり助役(小さな町のですが)をしていますが、評価などまずされません。まあ、目の付け所は非常にいいと思います。最後に一つ「歴史とは勝者のつくるものである」という一言を掲げておきます。
[264へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/10/14(Mon) 19:12:39とっとこハム太郎殿、
南雲忠一中将に関して、彼の悲劇は海軍人事に責任の根幹があります。航空戦ズブの素人に、年功序列の観点から虎の子の機動部隊を預け、ハワイ作戦とミッドウェー作戦の総指揮権を与えた。
彼の専門は水雷です。当時マニュアルも完備していない最先端
の航空機動作戦の指揮官に素人配置とは・・。今で言えばスペースシャトル計画の責任者に、船乗り20年の経験者を当てる様なもの。ハワイ作戦は、側近の航空戦に精通した者の実質上の指揮
で助かったものの。S17・4月のインド洋作戦でのミッドウエー
と同じく兵装転換途中に危うく空襲を受けそうになった事実を
とっとこハム太郎殿はご存知でしょうか?危機一髪でしたよ。
全く同じ誤りを2ヶ月後のミッドウェーでもおかした。
2度目の換装指示間際の、二航戦司令官・山口多聞少将の正論
を全く聞かず、正攻法のみにこだわり、愚劣な兵装転換を2度も・・。経験とともに臨機の柔軟性も欠如していました。
アメリカ海軍であれば、左遷では済まず、軍法会議ものです。
まあ、アメリカ海軍は素人を大事な機動部隊の指揮官の配置に
年功序列を使うことはまずありませんけど。
南雲中将は2年後、サイパン地上戦で戦死されますが、
その折も海軍司令部壕での自決説と、最後の日(7/7)の
バンザイ突撃説との2つの説が戦後流布されました。
記者が南雲中将の夫人に感想を求めたところ、婦人は言われ
ました。「主人は自決できる様な人ではありません・・」と。
[264へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/14(Mon) 21:01:38 う〜ん・・・なるほど。色々と参考になった。こうして考えると南雲中将の評価は低いね。参謀が情報を整理し、作戦を進言して指揮官が決断を下すのが一般的だからね。真珠湾作戦などその典型だと思うのだが。山口多聞は空母飛竜でミッドウェー海戦において最後まで孤軍奮闘していたから、評価が高いのかな?米国空母ヨークタウンを撃破したして一矢報いているからね。あと確か米国でも有名なハルゼー提督も水雷出身なのだが、ハルゼーに対しては如何かな?南雲中将が水雷出身で年功序列で機動艦隊の司令官になったのは知っていますが。ハルゼーも年功序列で機動艦隊の司令官になったのですかね?キンケイドも確か最初は巡洋艦部隊の指揮官だったはず。こう考えると日米共に航空出身者が機動艦隊の司令官なるとは限らないのでしょうかね?最もハルゼーは空母サラトガの艦長の経験がありましたが。
インド洋作戦の兵装転換は知っています。ミッドウェーで兵装転換中に急降下爆撃で一気に空母赤城・加賀・蒼竜を大破されたのでしたから。印度洋ではツキがあって、ミッドウェーではツキがなかったんでしょうね。巡洋艦利根の索敵機がカタパルトの故障で発進が遅れたとか・・・しかし南雲中将もミッドウェーの教訓を生かして、南太平洋海戦で日本海軍機動艦隊の最後の勝利を飾ったのですから。
書店でよく見かけるIF戦記小説でも南雲中将の評価が何故か低く、よく彼がミッドウェー海戦で戦死し、後任の山口多聞や小沢冶三郎が大活躍する場面があるのでどうなのかなと・・・小沢中将の場合、太平洋戦争通じて、何の戦果を挙げたわけでもないし、マリアナ沖海戦のアウトレンジ戦法が高く評価されているのでしょうか?それともレイテ沖海戦の囮艦隊で評価をあげたのでしょうかね?小沢中将の場合、開戦前に空母集中運用を提言して、航空作戦の先覚者であると評価されたから高く評価されたのでしょう。実際彼はブーゲンビル島沖航空戦で指揮し、損害大きく、何の戦果をあげていません。マリアナ沖海戦のアウトレンジ戦法についても「敵を知らず、己を知らず」と私は解釈していますが。如何でしょうか?
南雲中将もそうですが、栗田中将もやはり評価の低い指揮官ですね。彼の場合、レイテ沖海戦の謎の反転でかなり評判を落としたのでしょう。そしてミッドウェー海戦の巡洋艦最上・三隈の衝突事故でしょう。あまり栗田中将がガタルカナル島において戦艦金剛・榛名でヘンダーソン飛行場を夜間艦砲射撃を実施して、戦果をあげたことについてもっと評価してもいいのではないでしょうか?どうでしょうか、吉弘統幸殿?
[264へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/10/14(Mon) 21:50:32とっとこハム太郎殿
確かにミッドウェーでは利根4号機の故障、索敵機の報告の不正確さなどの不運が重なりました。しかし情報のなさ、不確かさは
戦場の常であり、その中での経験値と感性を生かした判断が指揮官には求められます。仰せの通り、キンケイドも水上部隊の指揮官でしたが、年功序列ではありませんよね。抜擢です。
ハルゼーがミッドウェー直前、皮膚病で指揮がとれなくなった時
推薦したのはただの巡洋艦隊指揮官のスプルーアンスでした。
能力を評価し大抜擢したのです。そしてそれに応えた・・。
経験も大事ですがその人の総合的な(潜在的なものを含んだ)
能力でしょう。
小沢中将の場合、マリアナ沖海戦のアウトレンジ戦法は決して
間違いではなかったと思います。米軍のレーダーの進歩は認知
していてもその程度は知ることはできなかったし、VT信管の
存在など尚更です。その時の出来得る最善の作戦でした。
栗田中将はレイテ沖の反転が余りにも有名ですが、仰せの最上・三隈の衝突事故の他、スラバヤ沖海戦での友軍重巡戦隊を見捨てて遁走した実績もありました。海軍中央での人事評価の不徹底さ
はその後の作戦に大きな翳を落としているのも事実です。
ソロモンで米軍を恐怖に落し込み、今でも米海軍から評価の高い
田中頼三少将は更迭されていますし、比叡艦長の西田正雄大佐
も査問委員会もなく閑職へ。
やっぱ、日本陸海軍の人事制度が原因とも思います。
[264へのレス] 投稿者:亮孔明 投稿日:2002/10/15(Tue) 23:33:28はじめまして、とっとこハム太郎殿。私も太平洋戦史に興味を持っている一人なので不躾ながら参加させて頂きます。・・・といっても、試験直前の身なので、あまり長文を書く時間がありませんごめんなさい・・・。
南雲閣下を非難するわけではありませんが、この方、ミッドウェイ海戦直前の図上演習でもかなり甘い見通しを立てていたようです。演習では、アメリカ空母が展開していた場合「赤城」撃沈、その他空母も損害を受けるという結果となり、戦略の練り直しを検討しようとしていたときに、南雲中将は「赤城が沈むはずがない、機動艦隊は健在のまま演習を再開せよ」と命じたそうです。図上演習での出来事とはいえ、これではあらゆる可能性を想定するべき演習の意味がなくなってしまいます。この甘い意識は開戦以来連戦連勝からくるおごりと油断も影響しているのかもしれません。
栗田中将のレイテ沖における謎の反転について、栗田氏は戦後自ら「あれは間違った判断だった」と言っています。
ヘンダーソン飛行場への夜間艦砲射撃作戦は見事でしたが、この教訓をいかしたのはむしろ米軍の方でした。日本海軍はこの戦果を過小評価してたのでしょうか。当時の軍上層部は今の私たちが理解しにくいところが多いです。やはり当時の状況下にいないと幹部たちの判断や気持ちはわからないのでしょうかね。
[264へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/16(Wed) 15:26:43近現代の政治家、軍人に対する評価は難しい。
その人に対する好悪、親疎等があり、公平な評価は無理と言うもの。
ウェーバーは、政治家は結果責任だと説いた。
軍人にしてもそうでしょう。
心情よりも、結果でしょう。
軍人個人個人の評価もさることながら、組織が悪かったと言えるでしょう。
特に、陸軍がね。
日本軍には、敗戦から何かを学ぼうと言う考えはなかったのか?。
ノモンハンにしても、ミッドウェイにしても。
暗号を解読されて、山本五十六を撃墜されているし。
このことから、暗号を変更しようとは思わなかったのか。
それとも、暗号が解読されているとは思ってもいなかったのか。
よく、わからん、日本軍は。
[264へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/16(Wed) 16:39:27確かに、南雲忠一、栗田健男は悪役として描かれる事が多い。
映画「連合艦隊」では、南雲忠一を金子信雄が、栗田健男を安部徹を演じていました。
二人とも、悪役として鳴らした役者ですから。
最後に、何故「連合艦隊」と呼ぶのか知りませんか?。
[264へのレス] 投稿者:蒲生定秀 投稿日:2002/10/16(Wed) 20:11:41ご存知かもしれませんが「連合艦隊」は別名「GF」と呼ばれています、これは「Great Fleet」の略で英国では数ある艦隊の中でも「本国艦隊」のことを指しました。これだけでは「何故?」の答えにはなりませんので、ここからは私の仮説なのですが、イギリスの正式名称は「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」であることから誰かが「連合艦隊」と名付け(訳し?)たのではないでしょうか。
[264へのレス] 投稿者:亮孔明 投稿日:2002/10/16(Wed) 22:31:17日本海軍における「連合艦隊」は、平時には各地域ごと、或いは艦種ごとに分割されていた各艦隊が、戦時には作戦指揮の統合のためにひとつの組織に統括されるのでそう呼ばれています。
[264へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/17(Thu) 00:06:50いやぁ、永年の疑問が氷解しました。
国による連合なら、敵側であるのに、何故日本側が「連合艦隊」というのかわからなかったのですが、これでよく解りました。
どうもありがとうございました。
[264へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/10/17(Thu) 00:35:44日光山殿、補足として・・・・
「連合艦隊」の最初の編成は日清戦争時の常備艦隊と西海艦隊
が始まりです。日露戦争の時に第1艦隊〜第4艦隊までの連合
艦隊が編成された。この編成は日露戦争後に解散され、平時編成
になったが、訓練時に年1時期にのみ連合艦隊の呼称が使われた。常時編成になったのは、昭和8年5月からのこと。
日米関係が緊張を増し、漸次増大化し開戦時には、9個艦隊を
擁する大艦隊となった。今、通常呼ぶ「連合艦隊」はこの年
から終戦までのことです。
[264へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/10/17(Thu) 00:42:28連合艦隊「GF」=「grand fleet」(グランド・フリート)
の略です。
[264へのレス] 投稿者:蒲生定秀 投稿日:2002/10/17(Thu) 18:44:11確かに、調べなおしてみたら「Grand Fleet」でした(冷汗) 私も疑問に思っていた「連合艦隊」の意味がわかり勉強になりました。どうもありがとうございました。
[264へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/10/17(Thu) 23:54:29蒲生定秀殿、ご丁寧に有難う御座います。
今後とも宜しくお願い致します。拙者、海軍の他
江戸時代、幕末、明治初期も好きですのでこれら
の時代の時にもお頼みします!
[263] 武田騎馬隊とは? 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/11(Fri) 17:22:14 みんなも武士の時代に騎馬隊・騎馬武者と言えばだいたい思いつくのが、武田騎馬隊・伊達鉄砲騎馬隊・源義経の騎馬隊であろうか?そもそも騎馬隊とは一体どんな役割で運用されていたのかを考える必要がある。「信長の野望」に出てくる鉄砲騎馬隊がやたら強いが、本当に強いのか?騎馬隊とは近代軍事学で言う騎兵で独立した兵種なのか?水滸伝に出てくる連環馬(装甲騎兵)など本当に戦車と同じ役割を果たせるのかを・・・
はっきりと言ってしまえば、武田騎馬隊・伊達鉄砲騎馬隊など存在などしていなかった。「そんな馬鹿な!」と思われる方もいられると思うが、存在していないものは存在していないのである。確かに武士の時代にも騎馬武者はいたのは事実である。しかし騎馬武者が集中運用された事例などないのである。欧州・日本も同じであるが封建的社会において騎馬武者・騎士などは身分の差である。
日本では士分、欧州では貴族のみが乗馬を許される。現代の軍隊で言う士官クラスが乗馬できると理解して頂きたい。従って武田軍騎馬武者の比率は武田軍全体の一割弱である。織田、徳川、上杉も同様である。また武田が領有していた山梨県や長野県が馬の産地であることから、「武田騎馬隊は存在した!」と思っている方もいられると思うが、馬産地=騎馬隊とはならないし、そう考えるのは禁物ある。充分注意する必要がある。では騎馬の有効的運用であるが、以下の通りである。
@輸送用として馬を運用する。(資材・弾薬・兵糧など)
A伝令・通信として馬の運用。
B敵の敗走中における追撃に馬を使用する。
C逆に味方陣営の敗走で逃亡のために馬を使用する。
あと日本の場合、乗馬が許される士分の者でも戦闘が開始されるとほとんどの士分の者が下馬して、徒歩兵となって戦闘に参加するようである。日本に来日した幾人かの外国人宣教師の報告書で記載されており、原則的に日本では徒歩兵で戦うのが基本のようだ。
当時の国産馬は馬格が小さく、去勢されていなかったために騎馬での戦闘は適用ではなかったのが真相だったのだ。みんなもいつまでも武田=騎馬隊、もしくは「武田騎馬軍団」と言う幻影に騙されてはいけない。それでも「武田騎馬軍団」は存在したと信じている方がいれば反論を待っているのだ(^^)!!
[263へのレス] 投稿者:山中鹿介。 投稿日:2002/10/11(Fri) 18:26:56それでは「武田騎馬軍団」と言うのは、どこから出てきた言葉なのでしょうか?誰かが作り話で作ったとでも言うのでしょうか?過去に「武田騎馬軍団」は存在しなかった、という話は聞いた事がありません。むしろ、どんな武田信玄関係の本を読んでも、「武田騎馬軍団」が出てこないことはありません。唐突に存在しなかったと言われても、素直に信じる事は出来ませんな。まぁいずれにしても、我々は実際に見たわけではないですから、「どっちが正しい」と断言は出来ないと思いますよ。真実は一つながら・・・。
[263へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/11(Fri) 20:28:49 山中鹿介殿へ・・・(^^)さっそく返信が来たのは嬉しいのだ(^^)それでは「武田騎馬軍団」はどこから出てきた言葉なのか?そして何故歴史教科書をはじめ、武田信玄に関する書物に「武田騎馬軍団」が度々登場するかを・・・説明したいと思うのだ。
初めて文献などに「武田騎馬軍団」と言う架空の騎馬隊が登場したのは江戸時代に書かれた小瀬甫庵の「信長記」からだと言われている。恐らく小瀬甫庵は長篠の合戦で話を面白くさせるために、「勇猛果敢な武田騎馬隊を迎え撃つ、織田・徳川の鉄砲隊!三段撃ち!」と記載させたのであろう。必ずと言っていいほどに武田騎馬軍団は長槍を構え突撃する場面があるが、これは小瀬甫庵が考えた描写である。真実ではない。
「信長記」で記載されたことによって、江戸時代の軍記物をはじめ系譜・覚書の類までもが影響された。また明治時代に日本陸軍参謀本部が「日本戦史」「長篠戦役」で受け入れ、お墨付きを与えたために歴史家・軍事学者・大学教授・歴史小説家などが「武田騎馬軍団」を真実として、承認したのである。
余談ながら述べておくが、武田騎馬軍団=長槍と見るのは間違えである。長槍は徒歩兵である足軽が使用するものであり、騎馬武者の槍は短い槍しか使用できない。「武田騎馬軍団は長槍で突撃する旧式装備軍団」と理解してはいけない。もし武田軍が騎馬で長槍を使い横一直線で突撃ものなら、旧式どころか欧州より先駆けての最新式戦法である。
騎兵が長槍で横一直線で突撃するのはかなり先の時代でフランス革命後のナポレオン時代前後からである。日本の騎馬武者だけでなく、外国等の騎兵も調べなくてはいけない。教科書や歴史小説が真実であるかを調べて欲しいのだ・・・(^^)
[263へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/11(Fri) 21:50:48ひょっとこハム太郎殿、山中鹿介殿、こんばんわ。
ひょっとこハム太郎殿の論調は、最近読んだ鈴木眞哉の「天下人の条件」「天下人史観を疑う」「謎解き日本合戦史」と似ていますね。
鈴木眞哉は、江戸時代の書物は権現様史観で書かれているから、信用できないと言っています。
また、「謎解き日本合戦史」では長篠の合戦では鉄砲三段撃ちは無かったと言っています。
鉄砲三千丁と言っているが、本当は一千丁が本当らしい。
槍に付いては、ひょっとこ殿の説は正しい。
騎馬隊は、手槍を持つのが本当です。
長槍は、足軽が持って槍衾で突入します。
鉄砲を撃った後にです。
西洋馬が輸入されたのは、徳川吉宗の享保時代です。
それまでの日本馬は、主として農耕馬だったらしい。
私らは、映画、テレビで現代の馬が疾走するシーンを見ているので、それがインスパイヤされている所為かもしれない。
武田騎馬軍団に幻想を抱くのは。
[263へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/11(Fri) 22:44:36 ひょっとこに改名します・・・なのだ(^^)
[263へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/12(Sat) 00:39:53とっとこハム太郎殿、ハンドルネーム間違えてまことに相すみません。
ご勘弁ください、とっとこハム太郎殿(冷や汗)。
[263へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/10/12(Sat) 00:45:35こんばんわ。突然で申し訳ありません。私の実家は岩手県の気仙郡です。そこは葛西家滅亡後、伊達家の直轄地になりました。その理由は、まず第一に金山があった。そして第二に火縄の原料となる檜がたくさんあったということです。
騎馬鉄砲隊については、私も疑問がありました。鉄砲は放った時の衝撃が強く、馬上ではバランスがとりずらく、実戦向きではなかったのではないかと思うんです。
[263へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/12(Sat) 05:10:22 後水尾帝陛下へ・・・(^^)陛下から直々のお言葉大変恐縮なのだ・・・ありがたいお言葉なのだ(^^)それでは陛下が申された伊達鉄砲騎馬隊だが、私が何故疑念しているか述べたいと思う。
まず馬上で火縄銃を発砲したら、発砲による轟音で馬が暴れ、射手が落馬し、重傷または死亡する危険もある。そして鉄砲騎馬隊は足軽・雑兵のように徒歩ではないので遮蔽物に隠れることができず、身を晒しているために的になりやすい。そうでなくても的が大きいために狙撃されやすく、射手だけでなく、馬に弾丸・矢が当たれば馬が倒れ射手も落馬する。火縄銃は現代の自動小銃や短機関銃のように連発で射撃ができず、打ち損じてしまうと敵の反撃に対応できないうえ、馬上で操作・装填には手間がかかり大きな隙ができてしまう。また騎馬が疾走中に射撃しても振動により正確に標準が合わせられず、両手を使うため、バランスを崩しやすく落馬の危険もある。
陛下の仰せの通りである。だがまったく騎馬による鉄砲の射撃が無かったかは別であろう。ただ馬に轟音でも暴れさせぬよう充分調練する必要があったし、射手も当然馬術と射撃術に訓練しなければならなかったであろう。
むしろ馬上での射撃は銃身の長い火縄銃よりも銃身の短い短筒(懐鉄砲)の方が有効的であろう。短筒であれば片手で射撃することもできるし、操作・装填の手間も省ける。当然疾走中の射撃もあるから、散弾(散弾銃の弾丸のような弾)を用いるほうが有効的であった。正確に標準を合わせなくても弾丸が飛び散るから馬上からの射撃には適用だった。しかし射程の短いのが欠点だったが。
何はともあれ騎馬兵は飛道具に対しては非常に脆かったと見たほうがいいでしょう。ローマ帝国における戦車が実戦で使用されなくなり、競技用になったのはいい例ですが。確かに欧州では騎兵は花形であったのも事実です。第二次世界大戦でも旧ソ連のコサック騎兵やポーランド騎兵などが上げられますが。
余談ながらポーランド騎兵は第二次世界大戦でドイツ軍の戦車・装甲車を中核とする機甲師団に騎兵銃、サーベル、槍等の装備で突撃したそうです。案の定ポーランド騎兵は壊滅的打撃を喰らったのは言うまでもありません。
[263へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/10/13(Sun) 16:25:24武田の騎馬隊が存在しないというのは良く聞きます。
そこで質問なのですが、長篠の時、織田軍についてはどのようにお考えでしょうか。
一般的に鉄砲三千丁とか、いやそうではなく千丁だ。とか柵を三重にしたとか、色々言われておりますが果たしてどうだったのでしょうか。
私の考えとしては、そのころの鉄砲は精度が低く、その為命中率も低かったようです。しかし長篠の戦いは大きな戦ですから、鉄砲を集中させて使うのはとても有効なように思うのです。三千丁程度は有っても不思議では無いかと思うのですが。
[263へのレス] 投稿者:坂本竜馬 投稿日:2002/10/13(Sun) 23:23:58戦車兵が廃れたのは飛び道具に弱かったからでは無い、騎兵に対して圧倒的に機動力で劣っていたからである。
もともと戦車兵とはズボンを履かず馬にも乗らない農耕民族が作り上げた兵器である、圧倒的な突撃力と攻撃力をもっているが小回りが効かない、騎兵とは騎馬民族の兵種である、彼等は馬に乗る為にズボンを発明し、弓矢を持って戦った、いわゆる胡服騎射というやつである、機動性に優れ、何よりも小回りが効く、当然戦車兵はこの騎兵によって駆逐され、農耕民族の国でも騎兵が採用されるようになったのだ。
あと、私は教科書で騎馬隊があったの無いのといった細かい所まで追求する必要は無いと思う、歴史に限らず私は学校の授業とはその科目を好きな生徒を作る為にあるものだと思う、数学の授業はいかに生徒に数学の楽しさを教えるか、国語の授業はいかに生徒に日本語の美しさを教えるかであり歴史の授業もそうであると思う、少しでも歴史の好きな生徒を作る為にはやはりそれなりの描写が必要だし大筋さえ外れなければ構わないと思う、生徒に歴史に対する興味さえ抱かせる事さえできれば彼等は自分で調べるだろう彼等がさらに深い興味をもてば大学に進み、その事を専門的に研究すれば良い、「好きこそ物の上手なれ」ですよ。
小説に関してですが彼等は面白いものを書いて読者を喜ばせることが商道徳だし二つ説があれば当然面白い方を取るにきまっています、
[263へのレス] 投稿者:五十公野重家 投稿日:2002/10/21(Mon) 02:09:44 私も、竜馬殿の意見に賛成ですね。騎馬隊が在ったとしたほうが小説的にも面白いだろうし、ないとしてもそれなりの根拠・実証力がある。しかし騎馬隊が在ったとする今までの定説や根拠なども無視することはできないのではないだろうか?
時代の移り変わりの中で昔のものを今の常識に当てはめると滑稽であったりすることがある。そういった事が最近では昔の説をどんどん覆すような説・読み物(断言的な)って多く見られるようになった原因っと私は思うのですが…(私的)。
私的には武田騎馬隊は主戦戦力ではなく最後の掃討戦や相手に対しての奇襲で混乱に陥れるといった駒のひとつと考えるのですが。確か小幡なんとか(ちょっと忘れた)って騎馬戦術の書物、遺してませんでしたっけ?あれも江戸時代の創作物かもしれませんですけど…(笑)
[262] 利家と松について(NHK) 投稿者:武藤喜兵衛 投稿日:2002/10/10(Thu) 12:36:15みなさんだまされてませんか?
利家は、私の中では評価低いですけど。
何故ならば、日和見大名だから。
自分の娘を二人も人身御供に出してるから。
お兄さんの家をのっとった男だから。
[262へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/10(Thu) 15:11:11まぁ、そういった面は、前田利家にありますね。
賤ヶ岳でも、真っ先に離脱して、敗戦の原因を作りました。
その代わり、敵方に経っていたにもかかわらず、柴田勝家滅亡後、加増されました。
敵方について、加増されたのは、前田利家ただ一人と言われています。
勝手の同僚に追い越され、娘を妾にされた前田利家は内心どう思っていたか。
又、官位こそ家康に次ぐ大納言だが、領地においては豊臣家では第4位ですから。
利家より後に随身した徳川家、上杉家よりも下ですから。
そういうことですから、徳川家康の縁談争議でこじれた時、利家自ら和解に出向いています。
関が原を描く時どうしても、家康と利家を比べると利家をよく描かれる事が多いから、どうしてもイメージが一般的よくなったのだと思う。
[262へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/10/13(Sun) 01:51:33言われてみれば確かにパッとしない人ですね。
[262へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/13(Sun) 12:22:48今の大河ドラマが面白くないのは、利家が戦国の重要な場面に関わっていない事が挙げられます。
その為、関係ない登場人物の話で、その場面が語られ描写されていません。
佐々成政と前田利家との友情が語られているが、実際にはそう仲がよくなかったらしい。
「亜相公夜話」と言う書物には、佐々成政が秀吉に負けて坊主にして秀吉に謝りに来て、利家の陣の前を通った時利家がこれを聞いて家臣らに大声で笑えと言ったので、一同大声で笑った。佐々は、面目ない体で通ったとあります。
こういう大事なエピソードが抜けているし、大事な場面に女性が出すぎる。
内助の功は否定しませんが、そんな大事な時にしゃしゃり出てこないと思う。
[262へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/10/13(Sun) 16:28:58利家とまつというタイトルにも有るとおり、女性の活躍もテーマの一つですから多少はしょうがないとしても、日光山殿の仰る通りあまり重要な場面に関わっていませんね。あまり派手では有りませんし、やっぱりドラマには向いてないのかなー、と思います。
[262へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/10/13(Sun) 21:22:05NHKさんのポスターの通り「戦国ホームドラマ」的作風ですので
止むを得ないのかも・・ですね。実質「まつ」が主役の脚本ですから。
[262へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/10/14(Mon) 07:45:34今回の大河ドラマは、ポスターみてのご存じの通りホームドラマですから、それほど利家の行動については気にしなくてもよろしいのでは。。。吉弘統幸様のご存じの通り「まつ」が主役??ですからhttp://homepage3.nifty.com/hkume/
[262へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/14(Mon) 22:46:27私は、大河ドラマとして、田沼意次、保科正之を主役としたものを切に望む。
[261] No1軍師は誰か? 投稿者:武藤喜兵衛 投稿日:2002/10/09(Wed) 14:44:55勿論 武籐着兵衛(真田昌幸)もその候補だが,個人的には明石全登,直江兼継。
[261へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/10(Thu) 02:43:03 こんばんは・・・ハム太郎なのだ(^^)よろしくなのだ(^^)軍師について自分なりの説明と考えを書くのだ(^^)
軍師と言えば思いつくのが、竹中半兵衛・黒田官兵衛・山本勘助だと思うのだ。では実際の軍師はどんな仕事をしていたのかが焦点となるのだ。軍師は奇計・奇策・夜襲・奇襲などの策を用いて勝利するのが前提となっているが、あまり過大に評価するのは禁物なのだ。
そもそも上杉家の直江兼継や宇喜多家の明石掃部などは軍師と言うより外交を担当する家老と解釈したほうがいいのだ。現代で言う外務大臣なのだ。黒田官兵衛や安国寺恵慶も同様なのだ。
確かに戦の陣中には軍師はいたのだが、迷信を唱える占い師みたいな人たちであったと言われている。竹中半兵衛に関しては資料が少なく良くわからないが、ひょっとすると占い師みたいな感じではなかったのか?少なくても歴史小説で書かれているような劉備玄徳の軍師孔明のような人物ではなかったみたいだが。
後世軍師と言われる人達は中国の書物や中華思想に関連した書物を読んだか、聞いたかもしれない。とにかく東洋的兵学が強調しているのは「戦わないで勝つ!!」に重点が置かれているのに注目してもらいたい。ようはいかに謀略・調略を駆使して、相手の陣営を切り崩して、味方にするかが重点に置かれていることを。戦国時代などは外交によって左右されるわけで、特別に彼等が奇策や奇計を用いて勝利したわけではないのだ。
彼等が歩兵・騎兵・砲兵・工兵を展開する近代軍事学を学んでいたわけでもないし、軍事学を学ぶ環境もないのである。せいぜい中華思想を学ぶだけであろう。そしてまた平和な江戸時代に軍学者達が東洋的兵学を取り入れたため、奇計・奇策・奇襲・夜襲など面白おかしく書いたため、真実でないことが広まったのだ。確かに日本人には奇策・奇計・奇襲・夜襲など知恵を使って「寡をもって衆を討つ!」を好むのであろう。このようなことはただの講談や小説だけで良かったのだが、明治時代になっても広く信じられたために、太平洋戦争でも旧日本軍はやたらアメリカ軍に対して奇襲・夜襲を敢行したのだ。ガタルカナル島での戦いがいい例なのだ。
圧倒的な物量と火器を装備し、常識的な戦術を取るアメリカ軍に旧日本軍の奇襲・夜襲・奇計・奇策など全く通用しなかったのはご存知のとおりである。軍師を過大に評価して、誤った見方をしてはいけない。
後世言われる軍師は外交官であって、奇策や奇計など用いらなかったことを見なくてはいけない。
[261へのレス] 投稿者:武藤喜兵衛 投稿日:2002/10/10(Thu) 12:38:58色々知ってますね.感動した.ただこの知識は何処で身につけられたのですか?
[261へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/11(Fri) 01:00:05 武藤喜兵衛殿へ・・・
歴史に関しては色々と疑問を持つように考えるのだ(^^)本当に講談や歴史小説に記載されているのが真実であるかどうか・・・?
あまりにも話が出来すぎているのには注意したほうがいいのだ(^^)例えば・・・一例をあげれば木下藤吉郎の「墨俣一夜城」である。
@本当に墨俣城は一夜城であったか?
Aどのような建造物であったか?
B資材や兵糧はどのように運搬し確保したか?
Cそもそも墨俣一夜城はどこの誰の文献で書かれているか?
D蜂須賀小六は本当に藤吉郎に協力したのか?
E柴田勝家や佐久間信盛が失敗し、藤吉郎だけが成功したか?
Fなぜ信長は斎藤家しか敵対していないのに自ら出馬して、墨俣城の支援に当たらなかったか?
G墨俣城の役割と築城の目的は何か?
H墨俣城の視点は藤吉郎に話がいっているが、対斎藤氏作戦の一部として信長が立案した以上、視点の中心は信長に据えるべきなのに信長が話の中心となっていない!
I個別に撃破された佐久間・柴田はまるで秀吉の引き立て役とは思わないか?柴田・佐久間は軍事用語で解釈すれば「各個撃破、戦力逐次投入」と言うことになり、最悪のパターンである。
武藤殿・・・調べてください。おのずと理解できると私は思います。
[260] 上杉謙信の戦略とは? 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/09(Wed) 03:05:52 上杉謙信の戦略を自分なりに詳しく述べたいと思います。よく上杉謙信は「弱気を助け、強きを挫く」また「義の人」と呼ばれていますが実態はどうでしょうか?謙信はご存知の通り、長野県北部の小笠原・村上両氏を支援するために信玄と川中島で幾度も死闘を繰り返していたのは事実です。では何故謙信は村上・小笠原を支援したのでしょうか?本当に「義」だけで支援したのでしょうか?
戦略上地理的に問題があったのです。謙信の本拠地は春日山城で現在の直江津市であります。春日山は極めて長野県寄りに位置しており、信玄が長野県全体を席巻すれば本拠地の春日山そのものが危ういのです。そうでもなくても越中には本願寺勢力が、越後国には本庄氏の反謙信勢力があり、新潟県全体が政情不安な状態でありました。関東出兵に固執したい謙信にとってこれ以上爆弾を増やしたくないのです。小笠原・村上両氏が長野県北部で健在であれば、信玄との緩衝地帯を確保することができ、その分謙信は関東に集中することができるのです。
余談ですが謙信には領土的野心はなかったとみなさん思うでしょうが、本当は領土拡張ができなかったのです。謙信は信玄・信長のように謀略・調略が全くの不得意で領土拡張ができなかったのが真相なのです。晩年はやっと本願寺と和解して、本願寺の協力で北陸一円の領土を確保することができたのです。
いかかでしょうか?何か反論等質問があれば遠慮なくカキコしてください。楽しみにしております。次回は「謙信は関東で何をしていたか?」をカキコします。
[260へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/09(Wed) 04:06:01 日光山さんへ・・・「関ヶ原の勝敗の決め手!?」の考えをカキコしたので是非読んでね(^^)
[260へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/09(Wed) 11:32:33>とっとこハム太郎さん、それは是非読みたいですが、どこに書きこしてあるのですか?。
この討論用掲示板ですか?。
[260へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/09(Wed) 12:48:38とっとこハム太郎さん、わかりました。
貴殿の考え読ませていただきました。
私も、それに対して考えをカキコしたので読んでね。
[260へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/09(Wed) 21:14:32 ありがとうなのだ・・・日光山殿(^^)カキコしてくれて・・・嬉しいのだ(^^)ではでは私の方からの考えで更に付け加えたい。
意外かも知れないが吉川広家は伊勢方面の安濃津城を毛利秀元を大将に据え、攻撃しており、死傷者200人前後の被害を受けている。もし最初から吉川が日和見を決め込んでいたら、わざわざ損害の大きい攻城戦などしないであろう。小早川も伏見城攻防戦や大津城攻防戦に参加しており、考えれば吉川・小早川は関ヶ原本戦までは明らかに西軍傘下と見ていいのではないでしょうか?推測ではあるが彼等は関ヶ原に至って、迷っていたのでは?東軍優勢であれば東軍に加勢する。西軍有利であれば西軍として参加する。小早川・吉川は優柔不断の態度をとったのです。
私は家康勝利を外交面での勝利と見ている。それも本当に辛うじての勝利だったのでしょう。家康も最初から、吉川・小早川が裏切ってくれるとは信用していなかったでしょう。家康の背後にいる吉川の押さえとして、池田などの部隊を配置したことは、いつ吉川が心変わりをして、東軍に襲い掛かってくるか不安であったのでしょう。最初から吉川を信用しているならば、わざわざ池田を配置などせず、その分正面の石田三成へ攻撃させた筈です。
それと石田三成の人間性を指摘する意見が多くありますが、戦争に勝利することは個人の人間性でなく、戦術・戦略・経済など指摘しなくてはいけません。恐らく石田三成の人間性には江戸時代にできた文献に影響されているに違いないのです。江戸時代の学者達は徳川に対するゴマすりが多く、儒教的観念で評価しており、石田三成に対してはあらぬことを書いているのです。
例えば朝鮮出兵で加藤清正と小早川秀秋が左遷されたのは石田三成の讒言によるものだと言うのがいい例です。その他にも石田三成の讒言によって左遷された武将がおり、三成に対して反感を持っていた者が大勢いたと。
恐らく確信はありませんが、江戸時代の徳川御用達の儒教学者が書いたに違いありません。家康を高く持ち上げる為にことの他三成の悪口を書いたのでしょう。三成は讒言などしていないでしょう。彼は豊臣家の一官僚であり、経済を担当しており、秀吉の秘書のような仕事をしていたのでしょう。また現代に至っても司馬遼太郎氏が江戸時代の文献に振り回され、三成の人間性まで定着させてしまったのです。
徳川の三河兵は強く、尾張兵の3人に対して、三河兵は1人で対抗できるとか・・・よく司馬遼太郎氏の小説に掲載されている文章ですが、こんなこと絶対にありえないのです。江戸時代の文献に振り回されないようにみなさんも注意してください。
[260へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/10(Thu) 15:27:29吉川広家が、東軍に向いていたのは最初からです。
安国寺と言い争って、東軍に付くべきと言っています。
又、毛利が西軍に付いたのは輝元の預かり知らぬ事と家康に弁明書を送っています。
吉川が、三成や安国寺に反感を持っていたのは、吉川自身が文書に残しています。
しかし、吉川が動かなくても、安国寺や長束らはどうして動かなかったのでしょうか?。
安国寺と長束は首謀者の一人なのに、負けたら自分らがどうなるかぐらいはわかっていたはずなのに。
[260へのレス] 投稿者:六角定頼 投稿日:2002/10/13(Sun) 14:08:23とっとこハム太郎様の意見は非常にいいですね。戦争とは経済、これははるか昔からかわらないですからね。ですが一つだけ反駁しておきます。 「徳川の三河兵は強く、尾張兵の3人に対して、三河兵は1人で対抗できるとか・・・よく司馬遼太郎氏の小説に掲載されている文章ですが、こんなこと絶対にありえないのです。」と仰られておりますがおそらくその通りでしょう。しかし、人間とは論理の生き物ではなく感情の生き物なのです。たとえば立花道雪、本多忠勝、島左近は何故英雄と呼ばれて戦いに勝てたのか?これは彼らが無敵であるとの評判が立ったからです。いくら兵力が自分のほうが多くてもそういう豪傑がいるというのを知ると人間はやはり、「こんなのに勝てるわけがない」と思い込み、士気が低下するのです。つまり、そのような評判が立つと尾張の兵は三河には勝てないと思うから士気が下がる、逆に三河の兵はこいつら弱いと思い、大きな働きができる。こういったところであると思います。ですから、司馬氏はその面についてはある意味正しいことをいっていると思います。
[260へのレス] 投稿者:坂本竜馬 投稿日:2002/10/13(Sun) 22:33:13ハム太郎殿、初めまして坂本竜馬です、以後宜しく。
あなたの上杉謙信に対する意見、読ませて頂きました。
確かにその通りだと思います、実際、謙信も武将ですし、養うべき家臣
もいます、家臣達の欲望、すなわち収入増加を満たすには侵略が手っ取り早いですし、彼自身の欲望もあるでしょう。
でもね!皆そんな事知ってるんですよ、知っていて敢えて無視しているんですよ!それは何故か、上杉謙信という人物に皆、理想を託して架空の名将を作り上げているんです!夢の名将を作り上げているんです。
あなたのやっている事はその他人の夢の中に土足で踏み込んで、そこに咲く一輪の花を引っこ抜き、「どうだ、この根っこを見ろ!おまえが一生懸命育てている花の正体はその醜い根っこなのだ」と言っているようなものなのです。誰もが花に醜い根が付いている事は知っているのです、誰もが美しい夢の花に魅せられて花を育てる内に自然に醜い根がついている事も知っていくのです、知っていてもあえて無視するのです、はっきり言ってあなたのやっている事は歴史ファンを減らす事にしか貢献していません、さらにはこのサイトにはまだ若い小・中学生の方もやって来ます、彼等はまだ夢の花を手に入れたばかりで、醜い根の事は知りません、そのような彼等にいきなり醜い根の事を教えたらどうでしょう、彼等はその花を放り出すでしょう。あなたがそんなショッキングな事実を彼等に突きつけなくても彼等は自然とその事に気付き、その事も包括してその花を愛する様になるのです。私の友人には歴史の好きな者は一人もいません、私は孤独な歴史ファンでした、しかし、このサイトを知り、投稿を行ないチャットに参加する事により、初めて歴史について語る事のできる友人を得る事ができました。この幸せを破壊しないで頂きたいのです。さらに、あなたは司馬遼太郎先生の批判もしていますが、司馬先生は歴史学者ではなく小説家なのです、もし司馬先生が歴史学者であるのならば真実を追い求めねばならないでしょうが司馬先生は小説家なのです、先生の作品を読んだ読者が面白いと思わなければ本が売れず先生の生活は成り立たないし面白くない小説を書く小説家は優れた小説家とは言えません。もし、作品を書く時に、二つの説があれば、面白い方を取るのが小説家です、司馬先生は小説家としての職業道徳に従って作品を書かれているだけです。さらに司馬先生の作品は歴史の本筋を外しておらず、私に言わせれば、司馬先生は古文書に踊らされているのでは無く、古文書を上手く利用して自分の作品を充実させておられるのです。それから「三河兵一人に尾張兵三人」についてですが、あんなものは小説家のテクニックです、他にも例を挙げましょうか?、勇猛な佐賀兵、最も戦馴れした備前兵、日本最強と言われる土佐の一領具足・・・これらの言葉で読者の興奮を煽るのです。これらの事がイヤだと言われるのなら司馬先生に限らず歴史小説、時代小説を読むのをやめる事をお勧めします、多かれ少なかれどの作家にもこのけはありますから、ところで司馬先生の作品のどこがどのようにどのような古文書に踊らされているのですか、後学の為に是非お聞きしたいものです。
[260へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/13(Sun) 23:05:25 いやいやいあ・・・まいったのだ(・_・)落ち着いて欲しいのだ・・・坂本殿(・_・)必ずこのように感情的になる方は出てくると思っていたが・・・お茶でも飲んで落ち着いて欲しいのだ(^^)
[260へのレス] 投稿者:六角定頼 投稿日:2002/10/14(Mon) 12:41:26とっとこハム太郎様、失礼だとは思いますが、あなたのその発言は自分とは違う考え方を排除したいだけのように思えるのですが?あと反論があるなら遠慮なくとかかれている以上反論は真摯に受け止めるべきだと思うのですが。最後に、私の反駁についてはかかれていないようですが何らかの形で書いていただけませんか?
[260へのレス] 投稿者:六角定頼 投稿日:2002/10/14(Mon) 13:00:02今食事をとりながらふと思ったのですが、とっとこハム太郎様あなたは自分のかかれた見解について自分で反駁できますか?もしできないのであれば、あなたもやはり感情的に書いているのです。数学の計算などとは違い、歴史の真実はひとつではありません。Aという人から見た見解とBという人から見た見解は必ずしも一致しません。あなたはAという見解から見ているにしか過ぎないのです。それをよく念頭において書き込みしていただけませんか?
[260へのレス] 投稿者:織田信正 投稿日:2002/10/22(Tue) 15:25:34ハム太郎さん、「謙信は関東で何をしていたか?」についてカキコしてください。よろしくお願い致しますm(−−)m
[260へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/23(Wed) 18:25:41 大変申し訳ない・・・信正殿(TT)カキコしたいのだが・・・大変私は迷っているのだ!相当ショックを受ける方がいられる心情を思うと迷っている!う〜ん・・・どうしよう?
[260へのレス] 投稿者:織田信正 投稿日:2002/10/24(Thu) 18:15:10ショックですか・・・それなら仕方がないですね。残念ですがあきらめます。
[259] 武田家没落 投稿者:武藤喜兵衛 投稿日:2002/10/07(Mon) 23:23:38 拙者ほどの軍師は居ないであろう。皆 綺麗ごとばかりだなー。新府城が完成していないうちに織田が攻めてきたのは口惜しい限りであった。それにしても、親類衆筆頭の穴山信君は不細工な顔と、惨めな末路であった。奴は本能寺の変、徳川家康に暗殺されたと思うが、いかが?
[259へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/10/08(Tue) 00:09:14おっとそれは違うのでは、信君を殺したのは光秀に息のかかった土豪や百姓などに討たれたのですよ。また信君が不細工だなんて、あなたは本人を御覧になったことがあるのですか?あるわけがないのですからそのような言葉は慎むべきです。いくら故人とは言え、あまりにも失礼かと。
[259へのレス] 投稿者:信くん 投稿日:2002/10/08(Tue) 10:29:54武田が負けたのはぶきが古かったからだよ、武田のおっさん。
そんなこと、小6でも知ってるよ。
ちゃんと勉強しろよ。
徳川家康に暗殺されたなんて、ばからしいこと、よく考えられたね。
すごい発想力!!
[259へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/08(Tue) 12:14:16武藤喜兵衛殿。
穴山信君が、家康に殺されたと言う説は、江戸時代の書物「老人雑話」に載っています。
ただ、そうとは決め付けていません。
土民に殺されたと言う説を紹介された後、東照宮(家康)によるものともいうと風に乗っています。
私としては、家康公を尊敬しているのでそんな事はしていないと思います。
ただ、家康公は武田武士を尊敬していて、織田の代官が武田の叛乱で殺された後、丸抱えしています。
又、穴山死後、自分の息子(信吉)を養子にやって武田を復活させています。
このような家康公の武田に対する執着から、そのような疑いを持たれたのだと思います。
しかし、私はその後の武田武士の家康公に対する心服振りからそういう行為はないと思っています。
[259へのレス] 投稿者:山中鹿介。 投稿日:2002/10/08(Tue) 22:12:11そう言えば源二郎殿の先祖は穴山信君だとか・・・。私は個人的にはあまり好きな人物ではありませんが。
[259へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/10(Thu) 03:16:44 信くんへ・・・なのだ(^^)
武田が滅んだのは武器が旧式で滅んだのではないのだ。鉄砲が装備されていなくて、騎馬隊が中心の武田軍ではないのだ。武器が旧式で滅んだと信じているとは勉強が足りないのだ!武田騎馬隊など存在してないし、鉄砲を装備していないと信じているようでは勉強不足なのだ!
武田が滅亡したのは政治であり、経済であり、広義で理解すると戦略で敗北したのだ!!
[259へのレス] 投稿者:亮孔明 投稿日:2002/10/10(Thu) 18:03:10土着の土豪の勢力が強い甲斐・信濃をうまいこと治め、経営していけたのはひとえに武田信玄個人の強い統率力にありましょう。家臣達も「武田家」というよりも「信玄」自身に忠誠を誓っていたようです。信玄が死んだ時点で武田家の凋落は運命付けられてしまったといっても過言ではないかもしれませんね。
[259へのレス] 投稿者:小太郎 投稿日:2002/10/14(Mon) 11:50:00武藤殿、穴山信君の何処が不細工な顔で?
私は実物を見たことがないのでわかりません。
何しろこの時代に人間ですから。
武藤殿は信君の悪口を言うくらいですからその時代を生きてらっしゃった人物なのでしょうねぇ
武藤殿はおいくつなのですか?
もしかして想像やどっかの漫画やゲームで見た顔でも考えてらっしゃる?
なんと失礼な。
そんなこと言っている武藤殿の顔が見てみたいですな(苦笑)
[259へのレス] 投稿者:小太郎 投稿日:2002/10/14(Mon) 11:52:12失敬。打ち間違えを投稿後に発見。
「何しろこの時代に人間ですから」のところなんですが正しくは
「何しろこの時代『の』人間ですから」です。
申し訳ないです
[258] 長篠の戦死者 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2002/09/30(Mon) 23:32:24どうも宇喜多八郎です。
ちょっと疑問に思った事を書きます。
どっかで読んだ長篠の戦いの伝記漫画によると武田軍の戦死者は武田軍1万5千人中一万人に達しているといいます。
この数字は戦国時代の中でも戦死者の数だけでなく、戦死率という点でも飛ぶ抜けていると思います。
この数字は鉄砲と言う点を考慮したとしても本当なのでしょうか?
また、本当だとしたらなぜここまで凄い戦死者を武田は出してしまったのか?
また織田軍の戦死者は7、8千人とか・・・・・
この数字も本当なのか?
皆さんはどう思いますか?
[258へのレス] 投稿者:磐城守 投稿日:2002/10/03(Thu) 09:18:54宇喜多殿、それがしとしてはあくまでも過去の記録ですから
信用にも足りぬこともあると思います。
確かに鉄砲によって、武田軍に多くの戦死者が出たことは否定できません。
しかし勝者の記録はほとんど偏るものです。
にしても戦死率を考えると驚きます。
関が原の戦死者の割合から考えると、やはり違うのではないのでしょうか。
[258へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/08(Tue) 04:30:19 どもどもどもハム太郎なのだ・・・よろしくなのだ(^^)戦国時代に限らず、昔の合戦で直接の戦闘で戦死する人数だが・・・長篠の合戦で1万人の戦死者など絶対にありえないのだ!1回の合戦の直接の戦闘の戦死者は多くても100人前後と考えればいいだろう。
なぜかそう言えるのか・・・日本が明治時代に入って初めて対外戦争をした日清戦争で考えられるからだ・・・日清戦争での日本軍の戦死者は1万3千前後だったのだ!そのうち戦闘での戦死者は何と1千2百人前後と言われているのだ!残りの1万2千前後は病死で死んでしまったのだ!考えても欲しい戦国時代と比べ、火力と火器が一段と飛躍した日清戦争で戦闘での戦死者が1千2百人前後。約半年間の日清戦争で・・・
せいぜい火縄銃と弓、投石、槍で戦っていた武士の時代に1万人の戦死者など出るわけがない。機関銃でもない限りたった1回の戦闘で戦死者1万人などは絶対に出ない。むしろ戦国時代などの戦闘は衛生不備による病死、補給不備による餓死、敗走などによる事故死、非戦闘員に対する略奪、暴行、放火、人間狩りなどによる人的被害のほうが多いと見なければならない。
[258へのレス] 投稿者:豊臣秀次 投稿日:2002/10/09(Wed) 17:34:59そうだね。ハム太郎殿の言うとおり、戦死者は数千、数万などはでないと思います。そこまで勇敢に戦えないと思う。恐怖心で逃げると思うので、自分の軍が押されていると、みんな逃げてしまうと思います。
なんか意味不な説明ですいません
[257] 宇佐美定満 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/09/30(Mon) 20:53:26定満は、長尾家の武将ですが船に乗っていて転覆して死亡。
とされています。その転覆した船にいっしょに乗っていたのはだれでしょうか?忘れてしまいました。
ご存じの方レスお願いします。
http://homepage3.nifty.com/hkume/
[257へのレス] 投稿者:徳川家康 投稿日:2002/09/30(Mon) 20:58:22長尾政景ですよ。こういうことは、インターネット上で調べれば、すぐ見つかりますよ。
[257へのレス] 投稿者:武藤喜兵衛 投稿日:2002/10/07(Mon) 22:26:55上杉景勝の実父だよ^
[256] 関白秀次 投稿者:RON 投稿日:2002/09/28(Sat) 21:22:00豊臣秀吉の甥の秀次。
ゲームや書誌では、結構、無能や残虐というイメージが付きまとっているようです。
しかし、何種かの書物では優秀論が出ています。
秀吉に殺された理由は、残虐さお表の理由にして裏は秀頼を関白に据えたいが為という説もありますが。
秀次が関白に付く前に近江の20万石を統治していたときは善政をしいていたようです。また秀吉の行った人口調査も秀次が首班となって進めていたという研究結果もあるようです。もしかして、豊臣秀次は、優秀だったのでは?!http://jadaran.fc2web.com/
[256へのレス] 投稿者:梅里 投稿日:2002/09/29(Sun) 05:39:28初めまして、確かに私も彼に対して良い印象を持っていません。しかし、秀次は確かに名君だった節がありますね。実に単純な理由ですが、彼の像が近江にありますよね。束帯を着て凛々しい姿で立っているやつが。秀吉に嫡子が生まれ、秀次は関白退官を秀吉に迫られる。彼は優秀ゆえにもっと政治活動がしたかった。そのため退官を断ってしまう。それがきっかけになって、秀吉に殺されてしまいました。
秀長が生きていたら、そのことは穏便に片付けられて、スムーズに退官できたことでしょう。いずれにしても貴殿の考えは正しいと思います。
[256へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/02(Wed) 18:41:37初めまして、RON殿。
豊臣秀次が表向き処刑されたのは、秀吉に対する謀反です。
諸大名に金を貸した事(関白の棄て金と呼ばれています)、朝廷に献金した事、毛利輝元に誓書を取ったことなどが、クローズアップされ石田三成らに暴かれました。
しかし、これは表向きの事で、真実は関白と太閤との争いです。
太閤とその側近は、蒲生氏郷死後嗣子鶴千代が幼少なので会津50万石を取り上げようとしたところ、関白が同意せず蒲生の転封が取りやめになったと言う事実があります。
朝廷の序列では、関白のほうが上ですから。
又、関白秀次は五奉行ともうまく言ってなかった。
五奉行は、関白を補佐すべきなのに、太閤のほうについていた。
秀吉が、秀次一族妻妾子女をことごとく処刑した事は、何か感情的なものが介在したように感じられる。
又、三成ら太閤側近は秀吉死後秀次の時代になると、自分らはお払い箱になる事を知っていた為、秀吉に加担したのだろう。
この秀次事件では、いろんな人が罪をこうむり、これを機会に豊臣家から心を離れていきます。
豊臣家が関が原で負けたのは、利休切腹事件、秀次事件、唐御陣の負の遺産による者と言われています。
秀次が悪く言われるのは、太閤記等で非難されている為で、当時の人々はそんなに悪く言っていません。
[256へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/10/05(Sat) 23:34:40お邪魔いたす。
それがし、関白秀次へは同情します。
数ある養子の中で、ただ1人の後継者として手元に残された事。
関白にしてもらえただけでも、まあまあの器量を備えてたと思いたいです。
秀吉の影響が色濃く出された政権の中で独自色でも出そうとしたんですかね?秀吉から疎まれた事で立場を悪くしてしまいました。
関白職の早期返上とかで、生き延びる術くらいあった気がしてなりません。秀吉が大太閤、秀次が小太閤なんて形にして死ぬまでは1歩引いた形でジジイを立ててやっとけば、あとは幼年の秀頼を援けてやるだけで揺るぎ無い立場を確立できた様に感じます。
それにしても、ただでさえ少ない親族に対する仕打ちとは思えない秀吉の非道ぶり。
親族だからこそ厳しくした、と言うなら情けのかけらくらい見せるべき。人心が離れるわけだ。
[255] こんばんゎです。 投稿者:あやっぺ 投稿日:2002/09/26(Thu) 19:28:13どぅも、始めまして♪
只今小Eの、あやっぺともうします。
みんなに是非教えてもらいたい事があります。
江戸時代の武家諸法度と参勤交代について、詳しく教えてくださると嬉しいのですが…。
今、阪下晴未さんと同じで江戸時代は何故260年続いたのかという事について学習しています。
私は、最大の理由は武家諸法度、その中でも特に参勤交代だと思ったのですが…。
この事について、何か意見のある方や、武家諸法度or参勤交代について詳しく教えてくださる方、是非レス&メィルお願いします!
出来れば、メィルの方が助かるのですが…。
我侭で本当にすみません。
では、此れからもまたちょくちょく覗きに来ると思いますが、そのときはまた宜しくお願いします。
[255へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/09/28(Sat) 19:58:48検索して調べてみるのも一つの方法ですよ。
[255へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/09/30(Mon) 20:50:35あやっぺ殿。何処かで聞いた事のある名前ですなぁ
http://homepage3.nifty.com/hkume/
[254] 始めまして! 投稿者:阪下晴未。 投稿日:2002/09/24(Tue) 19:54:28はじめまして。阪下晴未といいます。
今回お聞きした事があり、投稿させていただきました。
今、歴史について学習しています。
そこで、ひとつ質問があるのでレス宜しくお願いします。
「江戸時代は、なぜ260年もの長い間続いたのですか?」
教えて頂ければ嬉しいです。メールも待ってます。
では。宜しくお願いします。
[254へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/09/25(Wed) 00:33:14難しい質問ですね。
織田、豊臣両家が短命に終わったのに比べて、徳川家が永く続いたのは、徳川家に譜代の家臣が多くいたためといわれています。
織田家も譜代の家臣はいましたが、信長が余りに新参の家臣を重要した為、譜代の家臣の心が離れたと言われています。
やはり、基本的には江戸幕府の統治が諸大名の支持を得た為だと思います。
いくら、強力に支配しても全国の諸大名が決起して叛乱を起こせば、幕府もお手上げでしょう。
幕府も諸大名もお互い協力し合って、統治していたのでしょう。
だからこそ、幕藩体制と呼ばれたでしょう。
他にも、色々理由はあると思いますが、根本的にはそういうことだと思います。
[254へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/09/25(Wed) 19:18:56うーん、難しい。ただ、日光山殿の諸大名の支持を得たってのは疑問がありますねそれでは、明治維新の時は薩長が支持をえたと言うことになりますそれよりも、そのころの大名の気分として、長いものに巻かれろ、何にも起こらない方がいいと言う気持ちが強かっただけではないでしょうか。それが260年間続いたわけですだとおもいます。要するに他の大名は腰抜けで。憶病者だったってことではないでしょうか
[254へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/09/25(Wed) 21:24:20明治維新のときのことを言われると弱いです。
大名が弱くなったのは、関が原の時あれだけ改易、減収された大名が居るのに、誰一人反抗しなかった事からも判ります。
戦乱よりも安定を選び、取りあえず自分たちを保証してくれる体制からはみ出そうとしなかったということですかね。
[254へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/09/26(Thu) 17:19:32やはり家康、秀忠、家光の三代が過去の政権を研究し、細かい部分まで設計図を書いたことがあると思います。
また、人治国家の色が濃い戦国の日本は秀忠の時代になって本格的に法治国家に生まれ変わり、家光の時代に完成します。目の粗いかつての法律に比べて内容のしっかりした法律によって大名を統制する。比較的近代型の政権だったことも長く続いた理由だと思います。
[254へのレス] 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2002/09/26(Thu) 20:02:03久しぶりに書きます。
こういう事でよく言われる事に江戸時代の大名は財力と権力を同時持ってるモノは居なかったという事があります。
江戸時代で老中など権力者になれるになれるのは譜代大名ですがしかしその財力である石高はだいたい10万石以下、一番多くて井伊彦根藩の35万石です。
また財力、つまり石高が多いのは完全に権力から遠ざけられた外様や、徳川の親戚として尊重されながらも幕府に対しては権限がない御三家など親藩です。
上から上げると
加賀前田藩の102万石
薩摩島津藩の77万石
尾張徳川家の62万石
陸奥仙台伊達藩の62万石
紀州徳川家の55万石
肥後細川藩の54万石
と言う感じです。
これらの石高を持った連中に少ない石高の譜代大名がえらそうにするには幕府という権力のバックアップが必要であり譜代大名は必死になって幕府を支えます。
つまり譜代外様は権力が無いから幕府に口出しできない。
譜代大名は財力がないから幕府に寄生したりはするが乗っ取ることは出来ない、という事です。
このシステムを作ったのは家康ですが、おそれく部下達争いで安定しなかった室町幕府や、秀吉の織田家乗っ取り劇、自分の豊臣から天下の奪取などから権力と財力を同時に持たせる危険性を良く解かっていたのでしょう。
結局このバランス関係は幕府の権力が他の大名より優っていた時まで有効だったがその幕府と大名達との勢力バランスが崩れた時に江戸幕府は終わったと言う事でしょう(幕府弱体化や雄藩の登場など)
[254へのレス] 投稿者:阪下晴未。 投稿日:2002/09/28(Sat) 17:30:34みなさん。詳しく教えていただいてありがとうございます。
[254へのレス] 投稿者:阪下晴未。 投稿日:2002/10/02(Wed) 16:34:55本当に感謝します。
[253] 山本勘助・・? 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/09/24(Tue) 10:21:06こんにちは!
山本勘助について思ったのですが。
山本勘助の父は、だれでしょうか?
山本勘助は武田の名軍師として知られています。
山本勘助の父も軍師だったのでしょうか?
ご存じの方レスお願いします。
http://homepage3.nifty.com/hkume/
[253へのレス] 投稿者:武藤喜兵衛 投稿日:2002/10/07(Mon) 22:31:10そんなことは、しらないよー。真田家万歳!!
[253へのレス] 投稿者:山中鹿介。 投稿日:2002/10/08(Tue) 21:59:39山本勘助は、軍師と言うより間者に近いものだったと聞いています。それも元は今川家の。もっとも勘助の存在自体定かではないようですから、その父の名前など、歴史上には残っていないのでは?父がいたのは確かでしょうけど(じゃなきゃ生まれてねーだろ!)。
[252] 誕生の日について 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/09/20(Fri) 16:31:33尾張徳川藩の初代藩主で知られる、家康の九男・徳川義直
の誕生日をご存じのかた、レスお願いします。
石田三成が切腹した日をご存じかたも、レスお願いします。http://homepage3.nifty.com/hkume/
[252へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/09/20(Fri) 16:52:42上杉弾正少弼謙信殿、こんにちわ。
尾張徳川藩初代藩主徳川義直公の誕生日は、慶長五年十一月二十八日です。
石田三成が三条河原で斬罪されたのは、同じ慶長五年10月1日です。
[252へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/09/21(Sat) 23:52:22石田三成が、斬罪にされたのは、三条河原ではなく六条河原でした。
訂正させていただきます。
[252へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/09/22(Sun) 20:17:35ありがとう。ございました。感謝します
http://homepage3.nifty.com/hkume/
[251] 松平忠直について 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/09/19(Thu) 19:10:37みなさん、こんばんわ。この度皆さんにお尋ねしたいのは越前北の庄城主松平忠直卿についてです。彼は結城秀康の子として生まれ、後に越前宰相と呼ばれましたが、叔父である二代将軍徳川秀忠に疎まれ改易されてしまいます。大河ドラマ葵徳川三代では、かなり悪役扱いされていましたが、実際の彼はどういう人間だったのでしょう。皆さんのご意見、お待ちしております。
[251へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/09/19(Thu) 21:47:07初めまして、後水尾帝殿。
越前忠直は、江戸時代を代表する暴君ですね。
しかし、伝えられる暴君話は、中国の古代の悪王が行ったとされるステロタイプの話ばかりです。
つまり、真実性がないということです。
越前忠直が、公儀から咎められたのは、病と称して参勤をしなかった為です。
事実、もし伝えられるように狂気の暴君であったら、改易、配流を伝えに福井に来た生母清涼院が来た時、素直に受けないだろう。
地元福井では、新田を開発したりして、評判は悪くない。
又、配流された豊後萩原では、一伯と号しておとなしい生活を送り生涯を終えている。
参勤しないと言う事は、臣従しないという事ですから、反逆と取られても仕方がない。越前松平家は「制外の家」と呼ばれ、幕府にとって目障りだったのかもしれないが。
初代藩主結城秀康は、二代将軍秀忠の兄ですから。
私は、伝えられるような暴君ではなく、只、父秀康の本家に対するわがままを受け継いでいた事は否定できないと思う。
[251へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/09/22(Sun) 23:30:19これほどまでに詳しく教えて頂けるとは・・・。日光山殿、ありがとうございます。私も単なる暴君だったとは考えがたい節がありました。これですっきりしました。
[250] 武田信玄 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/09/19(Thu) 00:33:36なぜm武田信玄は上洛の際、中山道をいかなかったのでしょうか?そのころは大軍は動かせなかったのでしょうか?しかし、織田信長の武田征伐の際、中山道を東上したと思うのです。なにか理由があったのですか?私には、絶対中山道を西上した方が京へは近いと思うのですが。
[250へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/09/19(Thu) 19:03:31こんばんわ源二郎信繁殿。私の考えを述べさせていただきます。
中山道は峠が多い上、道も狭かったと考えられます。ただ行軍するだけなら得に問題はないと思いますが、そこは戦国時代、戦に遭遇する可能性は充分にあります。狭い道で騎馬隊を主とする甲軍が戦うのはそうとう不利だったのでしょう。ゆえに広い東海道を通ったと考えられます。
[250へのレス] 投稿者:堀田正俊 投稿日:2002/09/20(Fri) 07:01:10中山道から美濃に出ると尾張三河から背後を突かれるおそれが。
上洛をめざしてたのかどうかも疑問視される今日この頃ですが
[250へのレス] 投稿者:九郎 投稿日:2002/09/20(Fri) 16:52:27単に上洛すればいいというわけではなくて、足場をガッチリと固めつつ進む必要があったからですよ。
[250へのレス] 投稿者:島津 忠恒 投稿日:2002/09/21(Sat) 18:50:53信玄の上洛の際に木曽路でなく伊那路を通ったのは武田氏の南信濃における拠点である高遠城があったからだと思います。また、外様の木曽氏がおさめる木曽路よりも古くから自分の領土であった伊那路を選んだんだと思います。信長が中山道を通ったのはその直前に木曽義昌が信長方に通じ木曽路の要衝である鳥居峠(現在の木曽郡木祖村と楢川村の境界)を抑えたためで、敵のいる伊那路には信忠が5万余を率いて攻め上ったのだとおもいます。
[250へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/09/22(Sun) 23:12:31いろいろな御意見、とても参考になりました。ありがとうございました
[250へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/08(Tue) 17:17:34 どもどもどもハム太郎なのだ(^^)よろしくなのだ!武田信玄は京都を目指していた上洛と言われているが恐らく違うと思うのだ。それにみんなが言っている武田騎馬隊などはなかったのだ!武田騎馬隊などは全くのデタラメト言っていいのだ!
本当の意味において日本で共通の装備で訓練された騎兵が出来たのは幕末になってからなのだ!騙されてはいけないのだ・・・みんな!
では何故武田信玄は中山道ではなく、東海道方面から侵入したか?これは戦略上の面から見なくてはいけない。恐らく信玄は京都を目指していたのではなく、三河制圧のために出兵したのであろう。当たり前だが信玄の本拠地山梨県から京都までの距離を考えれば補給戦が延びきってしまい苦境に立たされる。それだけでなく行軍による経済的負担もかなりであろう。それに信玄の背後には上杉謙信と北条氏康がいるのを忘れてはいけないのだ。当時信玄は北条氏康と同盟を結んでいたとは言え、油断できる相手ではない。同盟破棄などは何度も繰り返してあったからだ。信玄の当面の敵は徳川家康と織田信長であったが、信長を牽制するため、福井県の朝倉義景に協力を依頼した。家康は遠江の本拠地浜松にいたわけだが、信玄は三河を制圧することによって信長と家康の連絡を遮断しようとしたのだ。三河が制圧されたら、家康は信長に支援されず孤立してしまう。そうなれば家康は信玄に降伏か徹底抗戦の道しかなくなるのだ・・・
信玄も損害の大きい戦闘はなるべく避け、お得意の謀略や調略で三河・遠江の切り崩しを図ったに違いないのだ。あと信玄は上手くことが進めば尾張を謀略等で切り崩し、有利な立場で信長と一戦交えることも視野に入れていたかもしれない。当然朝倉義景の支援が必要となるが・・・もっと戦略上から理解が必要と思うのですが。
[249] 上杉謙信の兄・長尾晴景について 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/09/14(Sat) 09:13:18上杉謙信は、越後国の有力大名ですが
その謙信の兄は、どのようなひとだったのでしょう。
私には、私の考えがあるのですが
皆様はどのようにみているのでしょうか?
ぜひ、お願いします。http://homepage3.nifty.com/hkume/
[249へのレス] 投稿者:天海僧正 投稿日:2002/09/14(Sat) 19:01:07こんばんわ上杉弾正さん、久しぶりに書き込みします。兄晴影についてですが、私の考えというかイメージなのですが、何か貧弱だったイメージがあります。また猜疑心もかなり強いイメージですね
[249へのレス] 投稿者:上杉弾正大弼景勝 投稿日:2002/09/16(Mon) 14:08:17うん,貧弱,そうですな。
[249へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/09/21(Sat) 16:31:21皆様、ご返事ありがとうございました。感謝します!
http://homepage3.nifty.com/hkume/
[248] 「岩屋城合戦」について。 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/09/13(Fri) 23:20:16戦国期空前の玉砕戦といわれる「岩屋城合戦」(筑前・
太宰府〔天正14年〕)九州完全制覇目前の島津軍と
衰運の大友家に忠節を尽くす勇将・高橋紹運。
程なく北九州上陸する豊臣軍を視野に入れての戦い。
皆さんの「岩屋城合戦」への考えをお聞かせください。
[248へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/09/22(Sun) 23:03:24皆様は「岩屋城合戦」ご存知ないのかなぁ?
[248へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/09/22(Sun) 23:25:36初めまして。岩屋城合戦は小説立花宗茂に載っていました。
詳しくは読んでいませんでしたが、高橋紹運の忠誠心は豊臣秀吉も称賛していましたね。それにしても悔やむべきはあと少しこの戦いが遅かったらということです。そうすれば彼も一大名として出世できたことでしょう。その子、立花宗茂も勇将として、また将軍家に対して強い忠誠心を持ちました。忠義に生きたこの親子をぜひドラマ化して、多くの人に知ってもらいたいですね。
[247] 日本五・八大天狗について 投稿者:大久保忠教 投稿日:2002/09/01(Sun) 12:27:38久しぶりの書きこみです。
突然で申し訳ないのですが『日本八大天狗』と『日本五大天狗』
について情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非是非
教えてくださいませ。
自分で調べてみたのですがなかなか資料が少なくですね…。
[247へのレス] 投稿者:RON 投稿日:2002/09/01(Sun) 15:25:15えー拙い知識ではありますが・・・
五大天狗→五剣山中将坊(香川)、金毘羅山金剛坊(香川)、白峰山相模坊(香川)、鞍馬山僧正坊(京都)、大峰山前鬼坊(和歌山)
八大天狗→大峰山前鬼坊(和歌山)、愛宕山太郎坊(京都)、比良山次郎坊(滋賀)、飯綱山三郎坊(長野)、鞍馬山僧正坊(京都)、白峯山相模坊(香川)、相模大山伯耆坊(神奈川)、英彦山豊前坊(福岡)
だったと思います。
地方によってはいろいろ諸説があると思いますが・・・
[247へのレス] 投稿者:大久保忠教 投稿日:2002/09/01(Sun) 18:40:52情報有り難う御座います。
すばやいレスに感激の極みです。(爆)
[246] 地味な二代目 投稿者:梅里 投稿日:2002/08/30(Fri) 11:50:22久しぶりに質問させていただきます。歴史上二代目というのはどうしても影に隠れてしまいますよね。しかし、奈良時代の藤原不比等
戦国時代の北条氏綱、江戸時代の徳川秀忠(将軍として二代目)のように後世に名を残すような人達もいました。そこで皆様に伺いたいのです。日本の歴史上実はすごい人だったという二代目を教えて頂きたいのです。よろしくお願いします。
[246へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/08/30(Fri) 19:15:49あえて言えば、北条義時でしょう。北条時政も謀略家として有名ですが、義時はそれ以上と作家の永井路子も評価しています。
承久の乱のとき、院や朝廷相手の為流石の鎌倉御家人も戦うのにためらった所、母の政子に演説させ源頼朝の恩を思い出させて戦わせ、見事勝利に導いています。
[246へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/08/31(Sat) 00:30:07そうですね、私は徳川信康と長宗我部信親を推したいですね。この2人が長生きしていれば歴史は変わったかと思います。特に信親は吉良親実も死ななかったでしょうし、関ヶ原も大きく変わっていたかもしれません。後、この私真田幸村、立花宗茂や毛利3兄弟などもそうですね
[246へのレス] 投稿者:梅里 投稿日:2002/08/31(Sat) 00:45:18なるほど、北条義時か。執権独裁(言葉が悪いかな)体制を確立したのは義時ですよね。北条家は謀略家の多い家柄ですからね。
信繁殿、確かに真田信繁殿も「日の本一の兵」と言われるくらいですからこれも納得できますね。話がそれますが、それを言ったら貴殿の兄上の信幸殿(松代藩のこれは初代ですが)も中々の知将ですよね。
[246へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/08/31(Sat) 11:47:17そうですね、案外幸村よりも器量が優れていたかも
[246へのレス] 投稿者:堀田正俊 投稿日:2002/09/01(Sun) 02:49:18信秀を初代と考えた場合の信長は2代目としてすさまじいものが
[246へのレス] 投稿者:上杉三郎景虎 投稿日:2002/09/01(Sun) 18:09:59私は、越前朝倉氏2代目・氏景を推します。
初代・孝景が、越前統一半ばで倒れたあと、武力による越前統一を成し遂げた人物です。ただ、38歳という若さで病死してしまったのが悔やまれることですが。
ちなみに余談でありますが、この氏景の末弟に当たるのが、越前朝倉3代・貞景、4代・孝景(初代とは別人)、5代・義景の間、軍事面を支えた朝倉教景(宗滴)です。
[246へのレス] 投稿者:美濃守秀長 投稿日:2002/09/08(Sun) 17:40:05斎藤義龍とかは?早死しなかったらまた、別の展開になっていたでしょう。
2代目で、私が特におすすめするのは、頼 三樹三郎です。父の頼 山陽も有名ですが、自分の志を貫き安政の大獄で死んだ彼もすばらしいと思います。
2代目と言っていいのかわからないですが藤原頼通も凄いと思います。50年も摂政・関白を続けるなんて・・・。彼の場合は時勢もかなりよかったからかもしれないですが、付け入る隙を与えなかったということで・・・
世界史だったら、アウグストゥス(オクタビアヌス)とか、曹丕あたりですかね?
[246へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/09/13(Fri) 15:25:26私も、真田信幸(関が原後信之)を推薦したいです。
源二郎信繁殿に悪いですが。
私は、余りよく知らなかったのですが、池波正太郎の真田太平記を読んで始めて知りました。
関が原後、家康、秀忠父子は怒りは強く、昌幸、幸村親子に死を命じるつもりでしたが、信之の身を挺した弁護で命を助けました。
大坂の陣で、幸村のため家康が危うくなりました。
その為、家康死後の幕府は信之の真田藩の取り潰しをはかったと思われるが、それを難なく乗り切った器量は凄いです。
[246へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/09/13(Fri) 22:34:45水戸の中納言殿、私は、前田利常を推薦します。幕藩体制時代に入ってからと考えると、前田利長が初代藩主となりますね。
利常は、幕府から謀反の疑いをかけられると、衣服をだらしなく着て、鼻毛を伸ばし放題にして、その危機を乗りきったのはあまりに有名ですよね。それだけではなく、領内では加賀友禅などの現在日本が世界に誇れる文化を奨励、発展させた名君です。
私は、日本史に興味のある子供達に利常のことを、鼻毛大名と名づけてでその功績を伝えています。
[246へのレス] 投稿者:梅里 投稿日:2002/09/27(Fri) 04:06:40皆様、貴重なご意見ありがとうございました。今後も私は二代目について色々と調べてみます。しかし後水尾帝様、利常を鼻毛大名と名づけたのは上手いですね。そのように子供達にも解りやすい言い方で偉人たちを紹介してあげてください。
[246へのレス] 投稿者:武藤喜兵衛 投稿日:2002/10/07(Mon) 22:45:53拙者 武藤喜兵衛です。二代目は、真田幸隆を初代にすると、真田信綱です。長篠さえ無かったら昌幸は武藤家をつぎ、信玄の旗本として大いに実力を開花させたでしょう。真田太平記は拙者も見たよ。お江あいたい。
[245] 坂本龍馬暗殺事件の真犯人は? 投稿者:日光山 投稿日:2002/08/29(Thu) 16:16:18歴史の謎で最大の物は、本能寺の変と坂本龍馬暗殺が二大双璧でしょう。
坂本龍馬暗殺の犯人は、公式には今井信郎ら幕府見廻り組の犯行となっています。
明治に作られた今井の調書は、矛盾するところが多くその真相性は疑われています。
坂本龍馬の暗殺事件の真犯人については、本能寺の変同様多くの説が語られています。
その多くの説を大きく二つに分けると、幕府説と討幕派説(薩摩説)になります。
私は、討幕派説をとりますが、皆さんの意見はどうでしょうか?。
是非、お聞かせください。
[245へのレス] 投稿者:天海僧正 投稿日:2002/08/29(Thu) 21:30:48こんばんわ。そうですね。私も日光山さんと同じ意見ですね。竜馬は新しい体制に現将軍の徳川家も参加される方針だったと思います。それを知った倒幕はの幹部が刺客を差し向けたのではないか。今考えると、歴史に「もし」があるなら竜馬の築きたかった時代を見てみたかったと思います。
[245へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/09/03(Tue) 01:11:15それがしも、倒幕派説を推し申す。
でもイメージ的に西郷どんは、関わって無さそうな気もします。
大久保が謀ったのか、一部藩士の先走りかって想像をしちゃいます。
[245へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/09/03(Tue) 11:26:29天海僧正殿、光源院義輝殿、早速御同心下され有り難うございます。
確かに、一般的には西郷のイメージは良いですが、実際には大久保以上の謀略家です。
大政奉還で、幕府を討てなくなったため、薩摩御用党を指揮して江戸を混乱に陥れて幕府の憤激を誘い、無理やり鳥羽伏見の戦争に持ち込みました。
また、相楽の偽官軍事件は、背後に西郷と岩倉が見え隠れするとも言われています。
[244] 官位について 投稿者:駒井高白斎 投稿日:2002/08/24(Sat) 07:46:43信長の野望シリーズで官位名を見ていつも思ってたのですが、「弾正忠」や「三郎兵衛尉(多分三郎は名前で兵衛尉が官位名だと思うのですが)」と言った官位名がないですよね。これは官位とは違ったものなのでしょうか?
[244へのレス] 投稿者:島津 忠恒 投稿日:2002/08/29(Thu) 00:29:51弾正忠も兵衛尉も官位名です。弾正忠は弾正台という朝廷の軍事部門の役職で治安維持と風俗粛正を行うらしいですよ。弾正忠は大、少があり(弾正大忠、弾正少忠)それぞれ正六位上、下です。兵衛尉は兵衛府という軍事部門の役職で左右があり宮門の守備や行幸の警護を行うらしいです。これも大、少がありそれぞれ従六位上、正七位上です。官位はその定員も考慮にいれるとだいたい8000ほどになるそうです。まあ、戦国武将の多くは官位を名乗っていますがほとんどが自称であり実際に朝廷から官位をもらっていたのは大大名やそれらの有力家臣のみだったようです。
[244へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/08/29(Thu) 12:43:35私も、弾正の官位(位)ですが、弾正忠ではございません。
弾正○弼です。(聞いていないか??)
http://www.hpmix.com/home/hayaho/index.htm
[244へのレス] 投稿者:梅里 投稿日:2002/08/30(Fri) 11:41:17上杉殿の官位は弾正忠より高い位なんですよね。
[244へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/08/30(Fri) 12:07:33そうです。弾正○弼よりも、高いのはありますけど。http://www.hpmix.com/home/hayaho/index.htm
[244へのレス] 投稿者:駒井高白斎 投稿日:2002/08/31(Sat) 13:57:56教えてもらってありがとうございます。官位と言っても奥が深いんですねえ。
[243] 関が原の勝敗の決めては? 投稿者:日光山 投稿日:2002/08/22(Thu) 19:08:33皆さん、こんばんわ。
今日は、今まで幾度と無く語りつづられてきた関が原の勝敗の決め手についてです。
関が原の布陣については、明治の初めに来たドイツの戦術家メッケルがいったように圧倒的に西軍が有利です。
西軍は、所謂鶴翼の陣になっており、東軍はその中にすっぽり囲まれています。
只、西軍の布陣は統制の取れた布陣ではなく、たとえば松尾山の小早川秀秋、南宮山の毛利秀元、吉川広家、長束正家、長曾我部盛親などは勝手に陣取っています。
私としては、指揮官の差だと考えています。
東軍は、戦国生き残りの徳川家康が陣頭指揮を取っていたのに対して、西軍は何故か軍の指揮をしたことの無い石田三成が取っています。
千軍万馬の家康に対して、官僚的美点は持っていたものの人望のない三成が負けたのは仕方がないと思いますが、皆さんのお考えはどうですか?。
[243へのレス] 投稿者:梅里 投稿日:2002/08/23(Fri) 00:52:18確かに、三成は役不足でしたね。その時点で勝敗は決していた!?
しかし、他に西軍の指揮官になれる人はいたのでしょうか?総大将の毛利輝元は例によってボンボンだし、島津兄弟は猛将とはいえ全国に覇を唱えるほどのものでもない。やはり、戦争とは戦略だけでどうこうなるものではないのでしょうね。
[243へのレス] 投稿者:梅里 投稿日:2002/08/24(Sat) 03:51:03補足
島津兄弟は伏見城の一件がなかったら東軍についていたんでしたね。失礼しました。
[243へのレス] 投稿者:六角定頼 投稿日:2002/08/24(Sat) 13:21:36それもあくまでも一説かと思います。実際に島津が東軍についたとは私は思えません。
[243へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/08/24(Sat) 19:04:27六角定頼殿、こんにちわ。
仰るとおり、それは戦後の島津の言い訳で、伏見に立てこもっていた徳川勢が全滅した為通ったもので、もし全滅しなかったらもう少しましな言い訳しなければ無かったろう。
島津は、完全に西軍に付いたが、三成が島津の軍勢が少ないため余り重要視しない為反感を買い、関が原では勝負が付いてから動いたものと思います。
[243へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/08/30(Fri) 12:10:577千石の戦経験の少ない、石田三成が勝つのはなかなかむずかしいですよね。他の戦経験のある西軍の武将が総大将になっていたら、勝てたかもしれませんが・・・http://www.hpmix.com/home/hayaho/index.htm
[243へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/09/13(Fri) 23:10:55西軍は三成が総帥になった時に負けが決まっていました。
いつの世でも人望のない・自己主張のみに終始する男に
人はついてはきません。
[243へのレス] 投稿者:武藤喜兵衛 投稿日:2002/10/07(Mon) 23:02:29甘い!石田三成は島左近はじめ、石田軍はよく戦った。そうは思わぬか?日和見武将たちより、よほど後世に名を残したと思う。わしが草の者と兵五百率いたならば関ヶ原は西軍大勝利だ。総大将は宇喜多秀家。
[243へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/10/09(Wed) 03:59:25 石田三成に総大将の器がないとよく言われているようなのだが、それはおかしいと思います。江戸時代に出来た軍記物や論文等などにより、三成の評価がおかしくなったのです。島津維新が三成に夜襲の意見が採用されず、反感をもったとかデタラメでしょう。あとみなさん島津を過大に評価しすぎではないでしょうか?猛将など実際の戦争には役には立ちません。島津維新の夜襲が採用されても勝利していたとは限らないのです。戦闘の勝利=戦争の勝利には繋がらないのです。
指揮官の差と言われていますが、20万石の三成が毛利・宇喜多・島津・上杉・小早川・吉川などの有力大名を傘下にしただけでも凄いことなどです。経済的信用度でも家康のほうが遥かに上なのです。にもかかわらず三成が西日本の有力大名を味方にすることができたことは大変なことなのです。
小山評定で三成の挙兵を知った東軍らは楽観していたと言います。規模もさほど大きいものではないと思っていたようです。しかし内容が明らかにされるにつれ、東軍の動揺は大きくなったそうです。一時は東軍解散の案も出されていたのです。家康も当然不安だったでしょう。背後からは上杉がおり、西日本の大名が結集すれば経済的にも逆転されてしまい、それだけ信用度が落ちるからです。豊臣系の東軍などは西軍に鞍替えしようと考えた武将もいたほどでした。福島正則とか・・・
実際の戦闘は西軍が巧く東軍を関ヶ原に誘き出したのが真相で、あらかじめ西軍は関ヶ原に陣地を構築して東軍を迎え撃ったのです。当然小早川も吉川も陣地を構築しておりました。東軍は西軍陣地を攻めますが、損害大きく苦しんでおりました。
島津維新も最初から戦闘に参加しています。密約も何もない島津だけ東軍が攻めないのはおかしいでしょう。島津軍も柵・土塁・空堀などの陣地を構築しております。島津軍も陣地で迎撃していたのです。日和見などはしていません。
小早川の裏切りで勝敗が決まりましたが、仮に裏切りなどなければ東軍は西軍の陣地を攻略できず、疲弊してしまい、総崩れとなっていたでしょう。そうなれば日和見していた小早川・吉川などは総崩れした東軍に飢えた狼のように襲いかかっていたでしょう。
あまりにも勝者に点が甘く、敗者に点が厳しいのはどうかと思います。いかがかな?
[243へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/10/09(Wed) 12:44:34>とっとこハム太郎殿、こんにちわ。
かなり、三成よりの意見ですね。
ここでは、珍しい(笑)意見です。
三成の挙兵を聞いた東軍が、動揺したと言いますがそんな事実はありません。
有名な小山会議で、黒田長政の根回しより福島正則の提唱によって打倒三成に固まりました。
また、山内一豊の提案によって、東海道筋の城と領地はことごとく徳川家に預けられ、関が原の時にはそれらの城は徳川家の諸将が管理していたのです。
そういう事実から見ても、東軍の諸将が西軍に寝返る事は考えにくい。
又、関が原で陣地を構築して向かえていたというが、西軍、東軍ほぼ同時に、大垣、赤坂を出ています。
そんな時間的余裕があったでしょうか?。
当初西軍が優勢だったのは、東軍が統制無く攻めていたためです。
東軍がめいめい気ままに攻めていたため、西軍が優勢になったのです。
それに、南宮山の日和見の説明がなされていません。
二時間もかかる山上に居っては、いざという時間に合いませんし、この押さえとして池田輝政以下二万の軍勢がいました。
そう簡単には、家康本陣にたどり着けないでしょう。
確かに、千五百ばかりの島津を恐れて攻めなかったと言うのも、疑問です。
よく引用される明治時代に来たドイツの戦術家メッケルが、関が原の東西の布陣を見て西軍の勝ちといった話ですが、私は信じない。兵数と陣形だけで考える参謀的迷妄だと思う。
結局、関が原は、三成と家康の人間性の戦いだったと思う。
常に頭高く才走り、へいくわいな三成を、家康の人間の大きさが打ち破ったのだと思う。
たしかに、とっとこハム太郎さんの仰るとおり、どこでも(古今東西)勝者に有利に歴史が書かれています。
敗者にも、ある程度公平に見ることは、必要だとは思います。
しかし、好き嫌いがあるしね、難しい。
[241] 戦国大名の嫡子について 投稿者:駒井高白斎 投稿日:2002/08/20(Tue) 08:43:30有名戦国大名の嫡子は家督を継がずに亡くなってる、又は家督を継いでも実権が親にあり、握らずに亡くなってる人が多いと思いませんか?家督を継がずに亡くなってる人物は、松平信康、武田義信、長宗我部信親など、家督を継いだものの実権を握らずに亡くなってしまった人物としては織田信忠、毛利隆元など・・・。彼らが家督を継ぎ、実権があったならばどんな戦国時代になっていたんでしょうね。
[241へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/08/26(Mon) 00:19:35織田信忠が生きていたら、秀吉の天下は無かったか、秀吉と戦っていたかでしょう。
信長死後の織田家の様なことは無かったと考えられます。
徳川信康の場合は、その人柄についてはまたできがたしと大久保彦左衛門が三河物語で述べているように嘱望される一方、残忍、放恣とか批判もあります。
だから、家康と秀忠のようにうまくいかず、秀吉と秀次と同じ様な悲劇になった可能性があります。
長曾我部信親の場合は、父元親が期待された武将ですので、関が原ではうまくやって土佐一国没収されるような事は無いと思います。
後の二人は、よく知らないのでここで考えを述べるのは遠慮します。
[241へのレス] 投稿者:梅里 投稿日:2002/08/30(Fri) 12:02:14隆元について
毛利隆元は家臣からの信頼も厚く、父元就に匹敵する器量人だったと聞いています。ゆえに彼が生きていたとしたら、信長や秀吉にとって脅威だったことでしょう。天下が大きく変わらないにしても、豊太閤の天下に下ったとしたら秀吉にとってかなり頼れる大名だったに違いありません。もっとも、その頃にはかなり高齢だったと思いますが・・・。
ただはっきり言えることは、元就が嫡孫輝元に対してそうであったように、隆元も嫡子輝元の凡庸さを心配していたことですかね。
[240] 松下加兵衛 投稿者:今川 氏真 投稿日:2002/08/18(Sun) 23:18:26松下加兵衛の話にはとても感動しました。この話がどれだけ有名かはしりませんが、秀吉が三河時代にはじめてつかえたのが松下加兵衛です、当時あまりに秀吉がはたらくためそれをねたんだ周囲のものがいじわるをして、それを悲観におもった松下加兵衛が1万貫をわたし新しい主君につかえるよういいわたしたのです。それから何十年かして、太閤秀吉は松下加兵衛をよびだし昔の恩にたいし、大名にとりたてたのです。
[240へのレス] 投稿者:RON 投稿日:2002/08/21(Wed) 00:03:48一万貫は、信憑性にかけますが、松下加兵衛之綱は秀吉に大名に取り立ててもらった後、秀吉より2年早く死去します。
息子の重綱は、当初豊臣秀次に仕えてましたがその後家康に仕え関ヶ原では東軍に参加しているようです。
その後、当主錯乱等でお家断絶の危険があったようですが切り抜け、結局3千石程度で幕末を迎えたようです。
ちなみに松下加兵衛之綱の娘は柳生十兵衛に嫁入りしたとかしないとか。
[240へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/08/28(Wed) 00:45:00美談です。私も秀吉の伝記で読みました。人ってこうあるべきですよね(感動)
[239] 革命 投稿者:今川 氏真 投稿日:2002/08/17(Sat) 02:29:49信長暗殺後の秀吉の織田秀信に対する態度と化け猫騒動後の鍋島直茂の竜造寺政家に対する態度の類似点と相違点についてのべませんか?
[238] 229について 投稿者:今川 氏真 投稿日:2002/08/17(Sat) 02:24:00守名乗りについて、たとえば明智光秀は日向にいないのに日向守という具合に所在地と守が全然かけ離れている場合はなぜでしょうか?赴任地ではなくランクなのでしょうか?
[238へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/08/18(Sun) 00:42:01ああ、これはこの官位を信長からもらった時点で、もう信長は九州征伐を考えていたんです。九州を攻める時にその家臣明智光秀が日向守ならば浅からずなにか縁のある人物だと民衆に思わせるためだったと思います。そのもう一つの例が秀吉の筑前守です。これも同様だったと思います。
[238へのレス] 投稿者:美濃守秀長 投稿日:2002/08/18(Sun) 03:15:11あと、光秀がもらった惟任の名字も、元、九州の名族のものだったことから考えても、九州征伐を見越してのことだったとか言われてます。
[238へのレス] 投稿者:上泉伊勢守 投稿日:2002/08/22(Thu) 18:02:08付随した質問なのですが、「〜守」の「〜」の部分で、国名で無いことってありまりますよね。たとえば、筒井土岐守忠親(江戸時代の人ですが)など。どうして国名以外のも使うようになったのでしょうか?
[238へのレス] 投稿者:島津 忠恒 投稿日:2002/08/29(Thu) 00:44:11もともと「〜守」は国司のことで大、上、中、小国でそれぞれ従五位上、下、正六位下、従六位下となるます。明智光秀が日向守というのは九州征伐を睨んだものであるかもしれませんが、ただのランクです。日向は中国なので正六位下になります。江戸時代の「〜守
」は実際に朝廷から官職を賜った武将もいますが、多くは自称です。すなわちニックネームのようなもので土岐守というのはおそらく源氏の末裔である土岐氏に対するあこがれにより自分で名乗ったまたは土岐氏と関係がありそう呼ばれていたかだと思います。
[238へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/09/07(Sat) 09:43:16光秀の日向の神、秀吉の筑前の神のように、信長は西の方に向いていたのでしょうか?。
東は、秀吉のように、家康に任せるつもりだったのでしょうか?。
秀吉は、西国は輝元に東国は家康に任せるという法令を発しています。
信長は、武田を滅ぼした後家康には駿河を与え、川尻には甲斐を与えました。
また、滝川には確か関東のどこかを与えたはず。
本能寺の変の時、慌てて関東から逃げ出していましたから。
秀吉も、まず西国を平定してから、東へ目指しています。
やはり、背後を固めてから、東へ向かうためでしょうか?。
[237] 真相 投稿者:今川 氏真 投稿日:2002/08/17(Sat) 02:11:48織田信長は本当は桶狭間で死んで父親と仲の悪かった今川氏真の弟が成り代わっていて、だから義元だけ殺して今川家をほろぼさなっかたという話はしっていますか?そうかんがえないと織田(入れ替わりの)がかつわけがない
[237へのレス] 投稿者:上杉景勝 投稿日:2002/08/17(Sat) 22:33:46「そう考えないと織田が勝つわけない」
この部分にちゃんとした理論と説得力を持たせないと、ただの妄想で終わってしまいます。
[237へのレス] 投稿者:上杉景勝 投稿日:2002/08/17(Sat) 22:38:23また、氏真の弟とは誰を指すのか、成り代わられる可能性は高いのか、織田家臣・尾張豪族がそれを認め従うのか、と言った箇所も詳細に述べるべきです。
[237へのレス] 投稿者:RON 投稿日:2002/08/18(Sun) 12:00:29そのような話は聞いたことありませんが、可能性は非情に薄いと思います。
もし入れ替わったとして、入れ替わった直後に、織田家臣団は気付かなかったのでしょうか?
また国力を見ても、義元が死に三河が独立したからといって、すぐさま今川家を織田家が滅ぼすことは不可能だと思います。
[237へのレス] 投稿者:こっと 投稿日:2002/08/20(Tue) 02:48:49はじめまして。『こっと』という変なHNを使わせていただきます。
早速ですが、その話のネタもとを教えてください。はじめて聞きましたので。
桶狭間については案外不明な点も多いようです。
両軍の作戦目的は何だったのでしょうか。
この時点で今川軍が一気に上洛するのは難しかったと思われますので。
[237へのレス] 投稿者:RON 投稿日:2002/08/20(Tue) 22:46:19再度の発言で恐縮です。
やはり「上杉謙信女性説」ぐらい興味を引く話題であるので、詳細な情報と話の出所、関連書籍等を教えていただければ幸いです。