駿府城

坂本竜馬

  駿府城前史
駿府とは駿河府中の意である。
この駿河国の中心地に足利氏の一門である今川氏が勢力圏を築いたのは
南北朝時代の事であった。
今川氏の初代 範国は手越原の戦い等で活躍した勇猛な武将であり、
その功により駿河・遠江二国の守護に任じられた。
今川氏が後に駿府城が建てられた地に居館を築いたのは
4代範政の時代であった。
この今川館跡は現在は残っていない、
後に徳川家康が駿府城を築いた際に壊されているため、
正確な場所も把握されていない。
やがて応仁の乱後、世が乱れるにつれて貴族化した各地の守護大名達は
部下の実力者達にその座を奪われていった、
下刻上の時代である。
しかし、一部の守護大名達は時代の流れに乗り独自の分国法を定め、
室町幕府の統制から逃れ、割拠していく。
今川氏も7代氏親のの時に分国法「今川仮名目録」を制定し、
幕府と訣別、有力戦国大名の一つとなる。
更に9代義元は甲斐の武田氏・相模の北条氏と駿甲相三国同盟を結び
背後を固めると、西方の三河・尾張に進出、
「海道一の弓取り」の名を欲しいままにした。
当時、京の都は応仁の乱以来の相次ぐ戦火で荒廃しており、
公卿達は今川氏を頼り駿河に下向していた。
当時の公卿は一流の文化人である、今川氏は
彼等の文化を貪欲に吸収していった。
ここに小京都と呼ばれた駿府第一次黄金時代が現出する。
永禄三年(1560)、三国同盟で後顧の憂いを断った今川義元は
かねてよりの念願であった西上作戦を実行に移す。
二万五千の大軍を動員しての一大作戦である、当時、
ここまでの大軍を動員できたのは今川氏だけであった。
しかし、ここでとんでもない事態が発生する、5月15日、
尾張国、桶狭間で休息を取っていた義元本隊は雷雨を衝いて
襲い掛かる織田信長率いる奇襲部隊の襲撃に会い、
義元は討死してしまったのである。
義元の跡を継いだ氏真は蹴鞠三昧の日々にうつつを抜かす遊興人であった、
つまり乱世向きの人間ではなかったのである。
乱世にこの様な主人の下に仕えるのは身の破滅である、
三河の松平元康は父親の持つ覇気の一片も持たない氏真を見限り
名を徳川家康と改め織田信長と攻守同盟を締結、東の武田信玄と共に
今川領に攻め入った。
ついに永禄十一年(1568年)武田信玄の駿府来襲のため氏真は
従者二千人を引き連れ駿府を脱出した。
従者の殆どは非戦闘員であり、氏真夫人でさえ
裸足で逃げ出す有様であったと言う。
武田信玄は街に火を放ったため当然今川館も、駿府の町も灰燼に帰した、
信玄は駿府よりも江尻(現在の清水市)を重視したため、
駿府は衰退した。
その後氏真は掛川城に入り五ヶ月間に渡り徳川家康と交戦したがついに開城、
名門今川氏は滅んだ、桶狭間の敗北から僅か八年の事であった。
第一次築城
天正十年(1582)武田勝頼が甲斐の天目山で自害し武田氏が滅びると
家康は駿河の支配権を手に入れた。
天正十三年、家康は浜松から駿府に移った、
かつて人質として過ごした駿府の地に今度は支配者として立った
家康の胸中はどの様なものであっただろうか。
当時の駿府は相次ぐ戦乱により荒れ果てていたが
家康は精力的に町の復興を行なった。
家康はまず駿府のシンボルというべき寺社の復興に力を注いだ。
天正十年には臨済寺を、翌十一年には静岡浅間神社の復興を行なった。
これらの復興を目のあたりにし、駿府の人々が
どれだけ励まされ心強く思ったであろうか。
天正十五年(1587)1月26日から駿府城築城工事が開始された、
かつての今川館跡に築城されたこの城は現在の駿府城の原型となった
ものであるがそれが具体的にどの様なものであったかは
私の手元に資料が無い、無責任な様だが御容赦願いたい。
工事は天正十七年(1589)5月25日ほぼ完成している。
しかし、完成から一年足らずの天正十八年(1590年)、
秀吉の小田原征伐に同行した家康は恩賞として関八州を与えられ、
そのまま駿府城には戻らなかった。
精魂込めて作った城と城下町を他人に譲らねばならなかった
家康の気持はいかばかりであったか・・・。
天下普請
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は
慶長八年(1603年)右大臣・征夷大将軍に任ぜられた、
以後264年間続く世界史上稀に見る長期政権江戸幕府の誕生である。
しかし家康はわずか二年で将軍職を息子の秀忠に譲ると
大御所として駿府に移り住んだ、慶長十一年(1606年)三月の事である。
人質時代、五ヶ国時代に続いて三回目の駿府移住である
余談ではあるが家康は五ヶ国時代もそうだが駿府移住が可能になると
すぐさま駿府に移住してくる、駿府に固執しているとしか思えない。
それは何故だろう、実務家の彼の事だから京と江戸の中間に位置するから、
気候が良く健康に良いから、要害の地だから等の理由
があるだろうが果たしてそれだけだろうか?
清洲や岐阜のほうが町の規模も大きいし、
生地の岡崎や青年期を過ごした浜松でも良いのではないか?
私論であり、静岡人である私の郷土贔屓も入っているのだが
家康は駿府という土地を
愛していたのでは無いだろうか。
人質時代に幼年期から青年期の人生の内でも最も多感な時期を
駿府で過ごした家康は
生地の岡崎よりも駿府に愛着を持ち、故郷であると
思っていたのではないだろうか。
さて、家康はこの度の駿府移住に際して、現在の駿府城の南に位置する
川辺村(現静岡市川辺町)に新しい城を築こうとしたらしい。
この城は海外貿易を見据えた新しいタイプの城であったらしいが、
当時の河辺村は安倍川の乱流域の中にあり
とても城を築けるような所では無かったため、この城の築城は断念、
従来の駿府城が拡張され使用される事となった。
こうして駿府城の拡張・大改修工事が始まった、
江戸城、名古屋城等と同じ天下普請の城であり資料によれば
畿内、丹波、備中、近江、美濃
伊勢の大名が動員され石高百石につき三人の人夫供出が課せられたと言う。
こうして慶長十三年(1608年)三重の堀と
五層七重の豪壮華麗な天守閣をもった駿府城が完成した。
駿府城の天守閣は銅張りの屋根を持ち、釘隠しには銀を用いる等
大変豪華な造りでありその銅屋根があまりにキラキラ輝くため
駿河湾の魚が居なくなったなどという伝説が伝わる程のものであった
さて、この天守閣は単に家康の見栄の為に建てられたものではない。
駿河国には富士山という日本第一の名峰が存在する、
当然駿府からもその偉容は望見できる。
家康はこの富士山さえ駿府城の装飾として利用した。
駿府開府にあたり、家康は東海道の付け替えを行なっている、
これは富士山と天守閣を使った視覚のトリックを行なうためである。
旅人は安倍川を渡り、正面を望むと正面に天守閣が、
その背後に巨大な富士山を望むことができる。
新しい街道をまっすぐ進めば、城に近づくにつれ富士山は小さく、
天守閣は大きく写り、再接近時には天守閣と富士山の大きさは
逆転してしまうのだ。
幕府の威はあの富士をも凌ぐ・・・人々にそう思わせるのに
十分な景観であったろう。
また、川辺城断念の事からもあきらかな様に安倍川の治水こそが
当時の駿府において大変重要であった。
当時の安倍川は現在の様な穏やかな川ではない、
静岡平野を縦横無尽に荒れ狂うまさに悪竜であった。
家康は総延長4・4KMに及ぶ堤防を築き駿府の街を洪水から守った。
これらの工事は薩摩の島津氏によって行なわれたため
この堤防は通称「薩摩土手」と呼ばれている。
この堤防により、駿府の市街地、農地は格段に増え、
更に明治期に行なわれた拡張工事を経て、
現在も我々静岡市民を洪水から守り続けている。
このようにして増えた市街地を整備、武家屋敷地、寺社地、町人地に分け、
駿府九十六ヶ町が成立する。
天下の主権者、家康が居住する事もあり、
この整備された駿府にはたちまち人が集まり人口は十二万人、
まさに日本屈指の大都会へと成長した。
駿府第二次黄金時代の到来である。
江戸時代の駿府城
しかし、元和二年(1616年)、家康が死去すると駿府の繁栄は終焉を迎える。
一時的に徳川頼宣、徳川忠長が城主となった事はあるが、以後は天領となり、
城代が置かれる事となった。
街そのものの規模も縮小し、以後幕末まで
人口二万人前後の中規模都市として続いていく事になる。
駿府城には火災が多かった。
家康在城中だけでも、三度の火事騒ぎがあり、
なかでも慶長十二年(1609年)の火事はひどく、
完成間近の駿府城の殆どが焼け、家康自身も
あやうく焼け死ぬところであったという。
寛永十二年(1609年)には城下町から出火、それが城にまで燃え移り、
全城が灰燼に帰してしまった、以後、城は再建されたが、天守閣が
再建される事はなかった。
安政元年(1854年)、安政の大地震により、再び駿府城は全壊し、
安政四年から五年にかけて修復を行なっている。
慶応三年(1867年)十五代将軍、徳川慶喜は
幕府の寿命が尽きている事を悟り、大政奉還を行ない、
幕府の若返り策を図ったが、薩・長・土のクーデターにより失敗、
鳥羽・伏見の戦いで破れた徳川家は朝敵の汚名を被ることに
なってしまう。
翌、慶応四年には徳川慶喜に対して追討令が出され、有栖川宮を総督、
西郷隆盛を参謀とする東征軍が進撃開始、三月五日には駿府に入った。
幕府側はこれに対し幕臣、山岡鉄太郎(鉄舟)を駿府に派遣、
駿府で官軍の事実上の総司令官である西郷隆盛に面会し恭順の意を示した。
この会談は後に行なわれる西郷と勝鱗太郎(海舟)の江戸城引渡し会談の
下準備とも言うべき会談であった。
この会談で西郷は江戸城引渡しや軍艦引渡し等とともに
慶喜の身柄の引渡しを要求し
たが山岡は慶喜の件に関しては断固拒否している。
西郷は尚も朝命を楯にこれを要求したが山岡は
「もし、立場が逆であればあなたは島津公を差し出すのか」と西郷に反論し、
西郷もこれをもっともであるとし、慶喜の身の安全を保障したといわれる、
硬骨漢、山岡鉄舟の面目躍如たる場面であろう。
明治以後の駿府城
幕府崩壊により徳川家は四百万石ともいわれる巨大な領土を没収され、
僅か七十万石の大名として駿府に入り、
やがて明治四年(1871年)の廃藩置県により消滅した。
この後、城は受難の時代を迎える、新政府は
駿府城内の建物を全て払い下げ行なってしまい、
明治二十九年(1896年)には陸軍第34連隊の誘致が決定、
本丸堀は完全に埋め立てられ、
天守台を含む本丸の遺構は全て破壊されてしまった。
この後、三の丸堀の埋め立て工事も行なわれ三分の一ほどが
昭和四十年頃までに埋め立てられてしまっている。
しかし、昭和四十年代より、破壊から整備保存へと政策が変わり、
平成元年には巽櫓が、平成八年にはそれに連結する門として
二の丸東御門が完成、
かつて埋められた本丸堀も一部が掘り返され
駿府城は昔日の面影を取り戻しつつある。





投稿本当にありがとうございました。

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