もとの木阿弥
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神代勝利

知っている人はいるだろうか、この言葉はある大名家でうまれた。
『筒井家』である。

大和国筒井城の城主筒井順昭はわずか28歳の若さで不治の病にかかった。
死を悟った順昭は一つ気がかりなことがある。
嫡子藤勝(のちの順慶です)が
まだたったの3歳の幼児だったことである。(関白秀吉さま気分)
筒井家は、そもそも古くから興福寺と友好的な関係のある大和屈指の豪族で、
先の城主順興の時代には成身院、布施、箸尾などの11家とともに
国判衆に列して名声を上げ、さらに順昭に至り
その武力によって諸豪族を麾下に集め、
自領12万石、麾下の領地8万石、合わせて20万石を持つ大名になった。

さて、本題にはいろう。

しかし、時は戦国時代。下克上がたくさんおきている時代だ。
周囲は虎視眈々と侵略の機会を狙っている。とくに、
あの悪名高い三好長慶の執事松永久秀は、
しきりに筒井家の麾下の豪族たちに願えるよう働きかけ、
筒井家の存在をおびやかしている。
このような状態を見るに、筒井家の状態を思い死ぬに死にきれなかった。
(あたりまえだよな)
いよいよ臨終というときに順昭は重臣たちを枕頭に呼び寄せて
「わしの死を3年間隠しとおせ。その間、内政などに力を注ぎ、
 にっくき松永久秀に乗ずるすきをあたえてはならぬ。
 また、一方では藤勝を教育し、立派な武将に育ててくれ。
 わしの死を隠しとうおすには、奈良の角振鷹集の社のほとりに
 木阿弥という盲人がいるであろう。顔立ち、声はわしにうりふたつだ。
 このものを密かに連れて参り、わしの寝所に住まわせ、
 わしの身代わりをさせるようにしろ・・・・・」
順昭はそういい終わると、28年のみじかい人生に終止符をうった。
こうしてまもなく木阿弥は筒井城に連れてこられ、
順昭の寝所にいて日を刻々と刻んでいったが、3年の間、
そのことを知る人はごく一部の人しかいなかった。

早くも三年が過ぎ、重臣たちは遺言に従って順昭の死を公に出し、
藤勝を当主にかかげた。
木阿弥は多くの金銀衣服と住居をあたえられ、
もとの角振町に帰ったといわれる。
かりにも前まで一国一城の主として過ごしてきた彼も、
角振町に行けば、やはり、もとの木阿弥だった。





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